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羅針盤
01 /01 2019
当ブログでは、フィレンツェ在住の日本人ガイドがフィレンツェを中心としたイタリアの情報を書いています。
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natale2016-9

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羅針盤2

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モデナの年表

エミリアロマーニャ州
10 /06 2018
モデナはエミリアロマーニャ州に位置する人口18万5千人の町です。
なんといってもフェッラーリ本社がモデナ近郊マラネッロにあることで有名ですが、今日はこの町の歴史を簡単な年表にまとめました。
modena

紀元前3世紀 この頃ケルト人(中央アジアからヨーロッパに渡来した民族)の集落がありモデナの町名はエトルリアの言葉に由来します。その後ローマ帝国の植民都市になります。

紀元前187年 エミリア街道の整備に伴い都市が建設されます。二千人のローマ植民がモデナに移住しました。

Mùtinaという名前で、キケロが「豊かな町であった」と記しています。

5〜6世紀 蛮族の襲来と洪水により町から住民が立ち退きます。しかしその後、多くの水路を利用した(モデナはパナーロ川とセッキア川に挟まれた位置です)手工業と商業によって町は回復していきます。

9世紀 最初の市壁が建設されます。

1099年 大聖堂の着工。これは自治権と経済的発展の印と考えられます。自治都市政府が2世紀ほど続きます。

1289年 内部闘争の結果、エステ家のオビッツォ2世によって支配されます。城壁の北に接して城が建設されます。

14世紀 一時的な共和制の復活の後にマントヴァ君主パッセリーノ・ボナコルシの政府が成立します。

〜1796年 エステ家が復権、18世紀までモデナを治めます。フェッラーラの町をモデルとした碁盤の目状の町の作りとなります。

(18世紀にはフランスやオーストリアなどの占領があったものの、唯一ナポレオン時代中断時期を抜かし、イタリアの統一まで外国勢力に対する抵抗を繰り返しました)

18世紀末〜19世紀 社会主義者の、後には共産主義者の中心地となります。

第二次世界大戦 北イタリアはドイツ軍に占領され、ドイツ軍とドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)がモデナを制圧に力を入れますが、市民の大多数の参加によるレジスタンス活動により抑圧に成功しませんでした。

参照 Emilia -Romagna Touring Club Italiano

パルマの年表と関連人物

エミリアロマーニャ州
10 /05 2018
エミリアロマーニャ州にある人口20万人弱(2018年統計)の町パルマの歴史をまとめました。

紀元前1500〜800年 青銅器時代に四角い形をした村落が形成されます。最初のネクロポリスもこの時代。

古代エトルリア時代 ラテン語に由来する「パルマ(円形の盾)」という名前で呼ばれる町の建設。

紀元前183年 古代ローマ植民都市の建設(同時にムティナ=モデナも近隣に建設されています)

452年 フン族の王アッティラの軍隊によって略奪されます。

539〜568年 ビザンティン帝国のもとで一時期栄えました。軍の財宝が街に保管されたため「黄金都市」と呼ばれます。

569年〜 ロンゴバルド王国の一部に。フランチジェナ街道の重要な宿場として発展します。

879年 東フランク王カールマンが司教グイード同意のもとに町の実権を握ります。

1140年 長い間、司教でもあった伯爵に治められたのちに自治都市となります。

1160年 赤髭王フリードリヒ1世がパルマを征服し忠誠を誓わせます。しかしロンバルディア同盟に参加し、レニャーノの戦いで神聖ローマ帝国に勝利しました。

12〜14世紀 グエルフィ派とギッベリーニ派の争いが繰り返されます。

1341年 パルマはミラノ公国(ヴィスコンティ家)の支配下へ。

1404〜1409年 テルツィ家による自治時代

1409〜1447年 ミラノ公国(スフォルツァ家)支配

1545年 イタリア戦争によってフランスに侵略支配されたのち、この年まで教皇領でしたが、ファルネーゼ家出身の法王パオロ3世がパルマを公国として分離させ息子に統治させます。

1731年 パルマ公国はファルネーゼ家からブルボン家の手に渡ります。

1748年 アーヘンの和約(オーストリア継承戦争の講和条約)後、フランス影響下におかれます。

【パルマ関連の重要人物】
◉コレッジョ
16世紀の画家で華麗で幻想的な表現が魅力です。パルマの大聖堂やサン・ジョヴァンニ教会、サン・パオロ尼僧院の天井画を描いています。下から見上げた(ソット・イン・スー)や明暗法(キアロ・スクーロ)を使用し、ダイナミックな動きを表現して、バロック様式を先取りしています。

◉ニコロ・パガニーニ
1782年パルマ生まれの作曲家、ヴァイオリン演奏家。ヴァイオリンの超絶技巧は「悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたそうです。

◉スタンダール
1783年生まれのフランス人小説家。イタリアが大好きでイタリアを取材して書いた作品があります。中でも有名な「パルムの僧院」は彼の晩年の作品で、7週間で書き上げた長編小説です。

◉ジュゼッペ・ベルディ
パルマ近郊ロンコーレ村で1813年に生まれた作曲家。ブッセートの町で8歳の時に最初の音楽教育を受けました。
代表作は『ナブッコ』『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』

◉アルトゥーロ・トスカニーニ
1867年パルマ生まれの指揮者。名曲や歌劇150曲を暗譜で指揮できました。

イタリア統一運動「リソルジメント」

ちょっとかじる歴史の話
09 /25 2018
19世紀に行われたイタリア統一運動「リソルジメント」(1815年–1871年)についてまとめました。

リソルジメント(Risorgimento)とは「覚醒」と言う意味で、リナシメント(ルネッサンスのことで「再興、再生」と言う意味)に関連した名前です。

中世以降、イタリア半島は都市国家に分裂し、最初は自治都市だったものの、次第にオーストリア、スペイン、フランスという大国の後ろ楯で治められるようになっていました。

19世紀の初頭にイタリアはナポレオンの勢力圏に入ります。
1796年 ナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢されます
1797年 オーストリアとカンポ・フォルミオ条約にてフランスはイタリア北部に広大な領土を獲得、いくつもの衛星国(姉妹共和国)が建設されます
1799年 オーストリアにイタリアを奪還されます
1801年 前年の戦いでオーストリアに勝利したフランスは北イタリアなどを保護国とします
1814年 ナポレオンはエルバ島の小領主として追放されます

ナポレオン没落後はオーストリア帝国の下で旧体制が復活します。これに対してイタリア統一運動が始まりました。
中心となったのは
◉カルボナーリ
カルボナーリは「炭焼(木を燃して炭を製造する職人)」の意味で、1806年頃にナポリ王国において結成された秘密結社です。1814年にウィーン会議でブルボン朝の王政復古が承認された後カルボナーリは中部〜北部イタリアまで勢力を拡大し、王権に対抗できる実力を獲得しました。しかしオーストリア軍やフランス軍に対する蜂起に失敗し、本拠地をパリに移します。
フランス7月革命の成功を受け、イタリアのカルボナーリは1831年〜32年に中部イタリアの各地で蜂起しましたがオーストリア軍によって暴動は鎮圧されました。党員は次々と離散することに。
離党したジュゼッペ・マッツィーニが亡命先のマルセイユで青年イタリアを結成すると残存勢力の多くが合流します。
    ↓↓↓
◉青年イタリア
カルボナーリの秘密主義に反対だったマッツィーニは国民全体の決起を目指します。
→「イタリア民族こそ神に選ばれたメシア集団」
「世界のメシアたるイタリアはまずオーストリアの専制政治から解放されて統一されなければならない」
党員は原則として40歳以下で、全員がイタリア史上の人物名を偽名にし、マッツィーニはフィリッポ・ストロッツィ(メディチ家に反抗した銀行家)を名乗りました。しかしジェノヴァやトリノでの蜂起に失敗、イタリア諸邦政府は革新主義者を激しく弾圧したため、マッツィーニはロンドンへ亡命します。
1848年革命でウィーン体制が崩壊した機会に青年イタリアが「ローマ共和国」を樹立しますがフランス軍に敗れ勢力を失っていきました。

1848年〜 イタリア独立戦争
サルデーニャ王国を中心としたオーストリアに対する独立戦争で、ロンバルディアがサルデーニャ王国に併合されたり、中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国への併合を決めました。

◉ガリバルディと千人隊(赤シャツ隊)
ニース生まれのガリバルディは青年イタリアやカルボナーリに参加したものの、反乱に失敗して亡命。
1848年の革命騒動で帰国するも「ローマ共和国」がフランス軍に包囲され、マッツィーニとともにイタリア各地を転戦。サヴォイア家から支援を断られニューヨークへ亡命。
1854年 帰国してカプレーラ島で農業をしつつ蜂起の機会を待ちました。
1859年 第二次イタリア独立戦争ではガリバルディはマッツィーニと決別してサヴォイア軍に入ります。
1860年 両シチリア王国で起きた反乱に乗じ、ガリバルディは約1000人の義勇兵を集めて千人隊を結成。ジェノヴァから2隻の船でシチリア島マルサラに上陸し、各地の反乱軍を取り込んで軍の規模を拡大させながら進軍しました。
こうして征服した土地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、イタリア王国統一に導きました。
エマヌエーレ2世との「テアーノの握手」と呼ばれる会見にて、全軍に「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだエピソードが有名です。その後ガリバルディは軍の職を辞して内乱を防ぎました。

1861年 イタリアは統一され王国に

1866年 ヴェネツィア併合
1870年 ローマなどの教皇領の残りを併合

参照 「イタリア現代史」山川出版社

トリノの年表

ちょっとかじる歴史の話
09 /16 2018
北イタリア、ピエモンテ州都トリノの年表をまとめました。

紀元前7〜3世紀 タウリーニ族の集落
紀元前2世紀  ローマ帝国がピエモンテ地方に侵入
紀元前28年 アウグストゥス帝の時代にローマ植民地Julia Augusta Taurinorum建設
4世紀 キリスト教化

6世紀 ランゴバルト族侵入、2世紀にわたって公国となる
8世紀 カール大帝がランゴバルト王デズィデーリオを破り、イタリア獲得への道を開きます
9世紀 カロリング朝の力が弱まり、イヴレーアの公爵ベレンガーリオがトリノを領土の一部に

10〜12世紀 封建領主、神聖ローマ皇帝、司教がトリノの支配権を交互に握ったり、都市国家の形態と取ったりと政治体制が移り変わりました。次第にモンチェニズィオに起源を持つサヴォイア伯爵の支配下へと入っていきます

13世紀 神聖ローマ皇帝フェデリコ2世がトリノをサヴォイア家トンマーゾ2世に与えます

1404年 トリノ大学創設

1418年 サヴォイア家アメーデオ8世がピエモンテ公に

16世紀 イタリア戦争で争ったヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(オーストリア・スペイン)が結んだ講和条約カトー・カンブレジ条約により、エマヌエレ・フィリベルトがフランス軍からピエモンテを取り返して首都をトリノとし、フランス王アンリ2世の妹マルグリットと結婚

17世紀 カルロ・エマヌエーレ1世の時代に公国の領土はジュネーヴ、ニースまで広がります

18世紀 スペイン継承戦争でハプスブルク側につき、フランス軍に包囲されます。117日間も耐え忍んだトリノはユトレヒト条約でシチリア王国を獲得(その後ロンドン条約によってロレーヌ家との間でサルデーニャ王国とシチリアを交換します)しかし世紀末にはピエモンテはフランスの支配下に入ります

1814年 ウィーン会議の結果、サヴォイア家ヴィットーリオ・エマヌエレ1世が復権

1831年 リソルジメント(イタリア統一運動)が始まり、サヴォイア家が治めるサルデーニャ王国が運動の中心となります

1859年 イタリア独立戦争の間に、ニースとサヴォイアがフランス領となります

1861年 イタリア独立宣言

1861〜64年 トリノがイタリア王国の首都に(64年以降はフィレンツェに遷都の後、さらにローマに遷都)

1899年 ジョヴァンニ・アニェッリがトリノでフィアットを創立

参照 Torino e il suo territorio., Touring Editore

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住25年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。