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羅針盤
01 /01 2017
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ぶどう摘みの季節

イタリアで食道楽
09 /26 2016
レッジョエミーリアのワイナリー「CANTINA FORMIGINE PERDEMONTANA」を見学してきました。
ボローニャ近郊なので、地方名産「ランブルスコ」という発泡性赤ワインを主に生産。それ以外にも白ワインも生産しています。

9月半ばは、すでにワイン用の葡萄の収穫期。「今年の葡萄は作柄いいよ」と伺いました。市場に出てくるのが楽しみですね。
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トラクターに積まれて、工場入りする葡萄。

見学している私たちの眼の前で、ザザーッと圧搾機の中に降ろされていく様子は圧巻。
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ワイナリーで説明してくれたマッテオさんの話によると「収穫は手摘みと機械摘みのものがあり、機械で摘んだ方が果実に傷がつきやすく酸化が早く起きます。そのため機械で収穫した葡萄は、2時間以内に圧搾機に入れて潰すことが規則で決められています」

2時間以内!美味しいワインを作るためには様々な細かい決まりにあるのですね。

ランブルスコは口の中がさっぱりするので、サラミや重たい肉料理に合わせます。サルーテ!(健康を祝して!)

墓碑モチーフ

シニョーリア広場地区
09 /25 2016
ウッフィツィ美術館の古代彫刻について、今回は二つの古代ローマの墓碑をご紹介したいと思います。古代ローマの作品です。

「ディオニュソスに捧げられた祭壇」
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1世紀終わり、ギリシャ産の大理石を用いています。リッカルディ家の所有でしたが、18世紀初めにはウッフィツィギャラリーのコレクションに仲間入りしています。
碑文にはディオニュソスの名前があります。彼は「豊穣とブドウ酒と酩酊の神」なので、どちらかというと狂乱と陶酔という、死よりも生命のシンボルのような神のイメージがあります。「墓(死)」とは対照をなすモチーフですね。
花綱はフラヴィウス帝の時代の典型的なモチーフです。中央で戦っている雄鶏たちは、故人の武勲の暗示でしょう。
側面には生贄の道具の下にくちばしに蝶々を捕らえた鳥類が彫られていて、こちらは魂の象徴です。蝶も墓碑によく出てくるモチーフなのです。
17世紀に入り静物画が描かれるようになった時、蝶はやはり「魂」のシンボルとして扱われましたが、古代のモチーフにルーツがあるのでしょうか?
二人のプットーに操られる海の怪物は故人を祝福の島に送り届ける神の行列につながるモチーフです。

「Teopropoの墓碑」
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ローマのメディチ家の別荘から1783年にウッフィツィギャラリーのコレクションに移されました。2世紀の作品。
碑文はギリシャ語でTeopropoという人物に対して献辞され、両親の名前TeseoとEuridiceの名前も見られます。
正面には浮き彫りで抱き合う「エロス(アモル)とプシュケ」がいます。おそらくヘレニズム時代の彫刻グループからインスピレーションを得たもので、ウッフィツィ美術館の第2廊下にその作品のレプリカが設置されていますね。
側面にはurceus(壺)とpatera(古代に神酒を注ぐに用いられた杯)があり、これらは葬式の献酒に使われていた用具です。

こちらも参考に「古代彫刻のアモルとプシュケ

墓碑モチーフも主要なものを覚えていくと面白そうですよね。

アンギアーリの町

アレッツォ県
09 /24 2016
レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェ共和国政府からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の500人広間に描こうとした「アンギアーリの戦い」は激しい戦闘図でした。

その戦いの歴史的舞台であったアンギアーリは今は静かな田舎の町です。
人口6千人弱、丘の高台にある町の様子は、トスカーナやウンブリア地方によく見られる風景です。
アンギアーリの町をご紹介する第3弾の今回は、町の歴史とともに旧市街の様子をご紹介します。
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ヴァルティヴェリーナの谷を見下ろす丘の上に町はあります。
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ヴァルティヴェリーナ(テヴェレ川の谷)という名前の通り、谷に沿ってテヴェレ川が流れています。
ローマ帝国時代には農場があったと思われるこの土地に、7世紀にロンゴバルド族の城が建設されました。
11世紀にはアンギアーリの城、12世紀には修道院が築かれ、周囲に町が発展していきます。
アレッツォ、ペルージャ、フィレンツェなどの都市国家が、アンギアーリの支配権を代わる代わる握ります。
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1440年には、かの有名な「アンギアーリの戦い」の舞台となりました。
フィレンツェとその連合軍の勝利を記念して、戦いのあった場所で「パーリオ」が行われることになりました。
パーリオはシエナの競馬が有名ですが、様々なレースの勝利者に与えられる賞品のことを「パーリオ」と呼び、シエナだけではなく他の町でも伝統行事のパーリオが行われているのです。

町の中で道に祝宴の支度がされていました。シエナのパーリオの祝宴によく似ていますが、もしかしてアンギアーリのパーリオに関連が?
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アンギアーリの戦いの後、町の歴史はフィレンツェと深く繋がれます。
ナポレオン支配の後、リソルジメントの時代にアンギアーリの市民の一部がガリバルディに協力して戦うなど、イタリア統一運動でも活躍しました。
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現在、アンギアーリは「 Borghi più belli d'Italia イタリアの最も美しい村」というアソシエーションに属しています。
この民間団体は、歴史的な遺産や景観を有する小規模な自治体(コムーネ)や分離集落(フラツィオーネ)によって構成されています。主要な観光ルートから外れているために忘れられている小規模な村の保全・整備・再活性化を図るのが目的です。2001年の創立時には100の村で構成されていましたが、2016年には258村を数えるまでに成長しています。

アンギアーリの戦い 2

アレッツォ県
09 /23 2016
レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェ共和国政府からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の500人広間に描こうとした「アンギアーリの戦い」は激しい戦闘図でした。

その戦いの歴史的舞台であったアンギアーリをご紹介する第2弾です。

1440年 アンギアーリとサンセポルクロの間で行われた戦いに参戦したのは
ミラノ公国軍 1100人
フィレンツェ・ヴェネツィア・教皇領連合軍 9000人

ミラノ軍にはサンセポルクロから2000人が加わり、合計3100人の軍となります。

戦闘開始は6月28日。ミラノ進軍による粉塵を見て、アンギアーリでは警戒態勢に入ります。

アンギアーリからサンセポルクロの方角を見下ろす坂。奥にサンセポルクロの町が見えます。
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ヴェネツィアの騎士たちが、連合軍がいる平野につながる運河の橋で、ミラノ軍の先発隊を止めます。
その間に連合軍は戦いの体制を整えます。しかしミラノ軍にピッチニーノ隊長の援軍が追いつき、連合軍はアンギアーリの方向に後退をします。

アンギアーリの美術館の中にあるジオラマ。
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その後、ミラノ軍の右側面に教皇軍が攻撃をかけ、ミラノ軍は橋まで後退。

ジオラマには橋近くの戦死者の様子まで再現されています。
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ヴィスコンティに雇われたジェノヴァの傭兵が応戦するも、連合軍の勢いは止まりません。4時間にわたる戦闘はミラノ軍の3分の1が分断され、夜中に連合軍の勝利にて決着がつきました。戦死者は900人ほどだったと推定されています。

この戦いの様子をマキャベリが執筆し、レオナルドが壁画で残そうとしたのです。

現代のアーチストがレオナルドの作品にインスピレーションを受けて描いた作品がこちら。
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次回は中世の面影が残るアンギアーリの町の様子をご紹介します。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。