ごあいさつ

羅針盤
01 /01 2019
当ブログでは、フィレンツェ在住の日本人ガイドがフィレンツェを中心としたイタリアの情報を書いています。
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羅針盤2

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テ宮殿 巨人の間

ロンバルディア州
05 /17 2018
マントヴァのテ宮殿の中で最も有名なのがジュリオ・ロマーノのプロジェクトで建設された「巨人の間」です。

1532〜35年につくられ、テ宮殿の中で最も大きな部屋になっています。
なんといっても特徴的なのは部屋の壁全体が途切れることのないフレスコ画で埋め尽くされていることです。
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正方形の平面図を持ち、天井はクーポラ(丸屋根)
そのクーポラ内部はゼウスが雷を用いて巨人たちに打ち勝つ様子です。
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巨人たちは地面の方から出発し、オリュンポス山に向かっています。
エピソードはオウィディウスが語ったギガントマキア(巨人族とオリュンポスの神々との戦い)から来ています。
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物語の中では巨人は1000本の腕を持った怪物して登場します。しかしフレスコ画では人間の姿をしています。巨人の横には猿がいますが、これはオウィディウスの物語には出てきません。
これはジュリオ・ロマーノが参考にしたのがオリジナルのテキストではなく、16世紀にニッコロ・デリ・アゴスティーニによって翻訳されたヴァージョン(訳に間違いあり)だったためではないかと考えられています。

フレスコ画には師匠ラファエロの影響が見られますが、ジュリオ・ロマーノの作風は師匠よりも力強く、洗練さでは劣っていることがわかります。

このテーマはマントヴァの町を訪問したカール5世の、プロテスタントとの戦いでの勝利を称えたモチーフではないかと推測されています。

参照  "L'appartamento dei Giganti", in Giulio Romano, Milano, Electa, 1989.

マントヴァのテ宮殿

ロンバルディア州
05 /16 2018
マントヴァのテ宮殿はゴンザーガ家のフェデリコ2世(イザベッラ・デステの息子)が資本を出して1524〜1534年に建設されました。
ラファエッロの弟子であるジュリオ・ロマーノによって設計された、彼の代表的な作品です。
1990年から市立美術館になっていて、様々な展示会が行われています。

「名誉のロッジャ」から見た庭に建つ「エクセドラ」
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15世紀からマントヴァの町は湖に囲まれ、リオ運河によって2つの部分に分かれていました。そして水路によって分けられた小さな3つ目の島が中世の時代からTejeto(テイエート)と呼ばれていました。テ宮殿はこの島に建設されます。
Tejetoという名前は「tiglio シナノキ」から来ているとも、「tegia ラテン語で小屋」から来ているとも言われます。
ここから「テ宮殿」の名前が来ているのですね。

この土地はもともと沼地でしたが、ゴンザーガ家が干拓し、彼らの貴重な馬を訓練する遊牧場となります。
フェデリコはこの遊馬場を、余暇を過ごす場所、著名人を招いて祝賀会を行う場所に変身させます。
子供の頃からローマの洗練された別荘で過ごすことが多かったフェデリコは建築家であり画家でもあったジュリオ・ロマーノに命じて、この場所を「幸せの島」にする夢を実現させました。
フェデリコはここをイザベッラ・ボスケッタという愛人と暮らす別荘として使ったそうです。

カール5世の訪問の折には、ジュリオ・ロマーノは新しいホールやギャラリー、大階段、ロッジャ、中庭を増設して行きます。

テ宮殿の中に見つけることができる紋章は
◉ラビリンスに囲まれたオリュンポス山
◉サラマンダー(「足りないものが私を苦しめる」というモットー付きのインプレーザ←フェデリコが個人的に使っていました。
宮殿内部の天井に見られます。
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宮殿は正方形の平面図を持ち、中央に大きな中庭があります。以前は中庭にラビリンスがあり、四方から入れるようになっていました。古代ローマのドムスからインスピレーションを受けた様式です。

主要な入口にはヴェスティーボロ(入り口ホール)があります。
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ロッジャ・グランデ(大きいロッジャ)あるいはロッジャ・ドノーレ(栄誉のロッジャ)と呼ばれ、前には魚養池があります。
ロッジャの天井のフレスコ画
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外壁は2層で凹凸のないドーリス式の付柱で区切られています。宮殿外部の表面はブニャート(浮き出し飾りのある切石積み)です。
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中庭側の壁も同じ様式ですが、外壁と違うのは柱が平坦ではなく、半円柱で大理石製になっている点です。
ジュリオ・ロマーノは古代建築からインスピレーションを受けてこの様式にしました。

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宮殿はロマーノの手により、その内部だけではなく外壁もフレスコ画で装飾されていたそうです。しかし外壁のフレスコ画は失われ、現在は見ることができません。

また内部はフレスコ画だけではなく、金や銀でめっきされた布地や革で装飾され、木製のドアにはブロンズやカメオや大理石が散りばめてありました。

マントヴァ宮廷画家マンテーニャ

ロンバルディア州
05 /15 2018
今日はルネッサンスの巨匠の一人マンテーニャを特にマントヴァ宮廷との関連でまとめます。

アンドレア・マンテーニャはパドヴァ近郊で1431年に生まれた画家で、パドヴァ派に分類されます。

10歳の頃から約6年間、スクアルチョーネという画家のもとで修行し、トスカーナの画家の作品(フィリッポ・リッピ、パオロ・ウッチェッロ、アンドレア・デル・カスターニョ、ドナテッロ)に触れ、正確なパースペクティブを学んだとされます。
そういえばドナテッロがパドヴァの町で10年ほど(1443〜53年)活動していたことは以前のこの日記で書きましたね。
工房を独立したマンテーニャはパドヴァのエレミターニ教会のオヴェターリ礼拝堂にフレスコ画を描きます。
この制作中に彼の特徴のある作風が確立されていきました。

オヴェターリ礼拝堂のフレスコ画は完成に9年を要しますが、その間を縫ってヴェネツィアの教会の宗教画を書いたり、フェッラーラでエステ家からの作品の依頼を受けます。
フェッラーラではピエロ・デッラ・フランチェスカの作品と出会い、イリュージョンのレベルで再現される透視図法を発展させていきます。

既にスクアルチョーネ工房にいる時からマンテーニャにはヴェネツィアの画家ジョヴァンニ・ベッリーニとの接触がありましたが、ジョヴァンニはマンテーニャの才能を見て、自分の娘と結婚させる決意をします。ヴェネツィアでマンテーニャはモニュメンタルな作風を失わずにベッリーニから柔和な人間像を学びました。

1456年
マントヴァのルドヴィーコ・ゴンザーガからマンテーニャへ宮廷画家となって欲しいという最初の手紙が送られます。ピサネッロがマントヴァを発った後の位置に相応しい芸術家を探していたのです。
ルドヴィーコは典型的なルネッサンス時代の君主=傭兵隊長で、ヴィットーリオ・ダ・フェルトレから古代ローマの歴史、詩、数学や天文学を学んだ人文主義者でした。
彼はマンテーニャ以外にもレオン・バッティスタ・アルベルティやルカ・ファンチェッリをマントヴァに招きました。

1460年
宮廷画家となるために、マンテーニャは家族とともにマントヴァに移り住み、固定給をもらうことになります。
家と家紋を与えられ、この時から死ぬまで宮廷画家の身分でした。

ルドヴィーコから最初に与えられた仕事は、サン・ジョルジョ城内の礼拝堂の装飾でした。
この礼拝堂のために「聖母の死」(現在はプラド美術館)も制作します。
フィレンツェのウッフィツィ美術館にあるマンテーニャ作の3枚の板絵もこの礼拝堂のために描かれた可能性があるそうです(1466年、1467年の2回のフィレンツェ滞在時に描いたという推測もあります)

1465年
彼の代表作である「夫婦の間」のフレスコ画を描き始めます。この部屋は「Camera Picta 描かれた部屋」とも呼ばれました(12年後に完成します)
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この仕事の報酬としてルドヴィーコはマンテーニャに土地を与え、ここに建設された家は今も「Casa del Mantegna マンテーニャの家」として知られています。
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この仕事の途中に画家はフィレンツェやシエナなどトスカーナを訪れていますが、この時にどの作品を制作したかはわかっていません。

1478年
ルドヴィーコが亡くなり、フェデリコが跡を継ぎます。彼は6年間マントヴァを治めます。
この時期のマンテーニャは細密画、タペストリーや彫金のデザイン、長持ち用の絵、ゴンザーガ家の住居の装飾など多岐に渡った作品を手がけています。
反対に絵画作品は少ないのですが、ミラノのブレラ美術館にある有名な「死せるキリスト」はこの時期の作品と考えられています。
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1481年 フィレンツェの君主ロレンツォ豪華王のために絵画作品を送ります。
1483年 ロレンツォ豪華王がマンテーニャの工房を訪れます。

1484年
フェデリコ・ゴンザーガの跡を18世の息子フランチェスコが継ぎ、1519年まで治めます。フランチェス子はあまり芸術には興味がなく、一族の伝統である軍の職務に熱心でした。槍試合などを開催し、名馬を収集します。

1485年(〜1505年)
このような空気の中でマンテーニャは9枚のシリーズ「凱旋」を描きます。古代ローマの凱旋行進の様子をテーマに扱ったものです。現在はロンドンのハンプトン・コート宮殿にあります。

1488年 ローマ法王のリクエストによりローマへ出発。ローマ滞在時にウッフィツィ美術館所蔵の「石切り場の聖母」を描きます

1490年 マントヴァに帰国。「凱旋」シリーズの続きに着手します。この年、フランチェスコの新婦イザベッラ・デステがマントヴァに到着。イザベッラはマンテーニャの才能を認めつつも肖像画では不満があり、自らの肖像画はレオナルド・ダ・ヴィンチに描かせることにします。

イザベッラはサン・ジョルジョ城の中の書斎を飾るために神話や寓意をテーマ死にた絵画作品をマンテーニャに注文します。「パルナッソス山」「美徳の凱旋」など。イザベッラの義姉エリザベッタ・ゴンザーガ(モンテフェルトロ家に嫁入りしていた)がウルビーノやグッビオに持っていた書斎からインスピレーションを受けています。そして「調和の国のイザベッラ」はマンテーニャが亡くなったため、ロレンツォ・コスタによって完成されました。

1505〜1506年
マンテーニャ最晩年の作品は苦さと憂うつさが表現されていて、彼の通常の作風から離れたものになっています。
そのうち2枚「キリストの洗礼」「聖セバスティアーノの苦しみ」は画家が埋葬されている聖アンドレア聖堂に展示されています。
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1506年、マンテーニャは75歳で亡くなります。29歳でマントヴァに呼ばれて46年間を宮廷画家として活動したことになります。

参照 Mauro Lucco (a cura di), Mantegna a Mantova 1460-1506, catalogo della mostra, Skira Milano, 2006

マントヴァのドゥカーレ宮殿 夫婦の間

ロンバルディア州
05 /14 2018
マントヴァのドゥカーレ宮殿には500以上の部屋があるそうですが、何と言っても有名なのはマンテーニャのフレスコ画で飾られている「夫婦の間 La Camera degli Sposi」でしょう。
ドゥカーレ宮殿の建築群の中、サン・ジョルジョ城の中にあります。

フレスコ画はマンテーニャが1465〜74年に手がけたもので、壁、天井、ヴォールト全てを覆っていました。
フランチェスコ・ゴンザーガが枢機卿になった折に、ゴンザーガ一家を讃えるためのテーマが選ばれました。注文主はルドヴィーコ3世。マンテーニャはこの宮廷ですでに1460年から仕事をしていました。
部屋はもともと謁見の間と家族を集めるベッドルームという2つの役割を持っていたそうです。

描いた順番は
ヴォールト、丸窓の周り、周囲の花輪(セッコ画法)
北の壁(テンペラ画法)
東と南の壁にカーテンの模様(フレスコ画法)
西の壁(非常に小さなジョルナータ←小さな1日分の作業量)

ルドヴィーコが亡くなったのち、この部屋は物置として使われていたため、壁画の保存もおざなりな状態でした。
そのためにヴァザーリもこの部屋の見学を断られ、著作「芸術家列伝」に書くことが出来なかったとか。
1630年のオーストリア軍の侵攻でも被害を受け、1875年まで見捨てられた状態になります。
「夫婦の間」という名前はルドヴィーコと奥方が描かれていたためです。sposiとはイタリア語で新婚夫婦のことなのですが、特に新婚カップルの寝室として使われていた訳ではありません。

2012年の地震でも部屋の壁にミクロなひびが入り、修復後の2015年から再び見学可能になっています。

部屋は一辺8mの立方体で、2つの窓、2つの扉、1つの暖炉があります。
マンテーニャはこれらの建築要素の邪魔にならないように、だまし絵のようにロッジャを設定しました。部屋の中にありながら屋外にいるかのようです。
まるで大理石の台に囲まれているかのように見え、描かれた石柱が場面と場面を分けています。

壁の上部には全部で12のルネッタがあり、ゴンザーガのインプレーザ(モットー付き紋章)を中心に置いた花綱で飾られています。ルネッタの下からは描かれたテントの布地が下がっていて、一部の壁ではこれが開き、一部では閉じられて背景を閉ざしています。

天井とヴォールト
だまし絵のペンデンティブで分割されています。金の地にモノクロームで描かれたモチーフは漆喰装飾の浮き彫りを思わせます。その書き方のたくみさから、天井がまるで丸屋根のように見えます。
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天井の中心には有名な丸窓が描かれています。
マンテーニャがすでにパドヴァのオヴェターリ礼拝堂で試したイリュージョンによって、外界に続いているかのように見えます。まるでローマのパンテオンの天井のようですね。
丸窓の内側は「sott'in su 下から見上げる」透視図法で描かれています。天窓の上から鑑賞者を見下ろす女性たちの顔が見え、背後には召使いもいます。それから12人のプットー(羽根付き童児)や孔雀の姿もあります。
マンテーニャは現実感を印象的に表現するために、手すりの内側に掴まっているプットーやはみ出した植木鉢なども描いています。手すりの穴からひょっこり頭だけを覗かせているプットーもいますね。
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そしてペンデンティブの円の中には浮き彫りのように見える人物像はシーザーやオクタヴィウス帝やネロ皇帝です。

「宮廷の壁」と呼ばれる暖炉がある面では、マンテーニャは右手の方から階段を登った台座の上に主要人物を並べることで暖炉という空間の障害を解決しています。
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ルドヴィーコ・ゴンザーガが左手の王座に座っています。手には手紙を持っていて振り返って召使いと話をしています。他の人物たちは静かに佇んでいる様子なので、その中でルドヴィーコだけに動きがあって、場面の中でも目を惹きます。椅子の下には彼のお気に入りの犬が座っています。背後には三男のジャンフランコがいて子供を抱いています。ルドヴィーコの孫のルドヴィキーノかもしれません。
黒い帽子をかぶっているのは宮廷の家庭教師ダ・フェルトレ、中央に座っているのは奥方のバルバラです。その膝に寄りかかっているのは最後の娘パオラ、手にしているのはリンゴでしょうか。それ以外の子供達が背後にいます。
奥方の服の裾近くにいる小さな女性は鑑賞者の方に視線を送っています。宮廷に使えていた小人症の人物だと思われます。当時の宮廷では小人を召使い、スパイなどに使っていました。
この場面が何を意味しているのかはっきりわかっていませんが、息子のフランチェスコが枢機卿になったという知らせをローマから受け取ったルドヴィーコであるという説があります。

「出会いの壁」と呼ばれる西の壁は3つの場面に区切られています。
右の場面。ルドヴィーコが左手に立ち、息子の枢機卿フランチェスコと会っています。彼らの下にはフェデリコ1世の子供達、一方父親は右端に立っています。フェデリコはデンマークのクリスティアーノ1世とハプスブルク家フェデリコ3世と話をしています。背景では丘の上にローマの町が見えます。人物たちはどっしりとしていて静的な印象を受けます。
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中央の場面では碑文の入ったプレートをプットーたちが支えています。
碑文はルドヴィーコと妻のバルバラを讃えるもので、画家マンテーニャの名前や1474年の日付も入っています。

左の場面は東方三博士を表現していて、エピファニアから「冬」の季節を連想させるために挿入されました。
ルドヴィーコとフランチェスコの出会いのエピソードは冬の出来事だからです。一部の場面が見えないのは18世紀に上塗りで覆われてしまったからです。

参照 Giuliana Algeri, Il Palazzo Ducale di Mantova, Mantova, 2003

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住25年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。