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テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

メディチ家の緑の空間

ヴェッキオ宮殿のサトゥルヌスのテラスに、2016年5月23日〜9月25日の期間、緑の空間ができています。
「un giardino in palazzo(邸宅の中の庭)」と名付けられたこの展示に関してお伝えする第5弾、最終回です。

メディチ家はフィレンツェの町中、そして郊外に多くの庭園を築きました。
数年前から「メディチ家の別荘とイタリア式庭園」が世界遺産の仲間入りをしています。
今日はメディチ家関連の緑の空間の数例を見てみましょう。

科学と医学への興味に動かされ、コジモ1世は植物学の邁進に力を注ぎました。
珍しい種を栽培させたり、アメリカから新発見の植物を運ばせたり、植物学の研究に力を入れたヨーロッパの最初の君主だったのです。

ボーボリ庭園
コジモ1世とエレオノーラの希望によって造られたこの庭園はヨーロッパの中でイタリア式庭園のプロトタイプと考えられています。
イル・トリボロに始まり、ヴァザーリ、アンマンナーティ、ブオンタレンティなど大公宮廷直属の芸術家たちが手がけて造園していきました。
街路樹の道、噴水、彫刻、水の仕掛けで満たされた広大な面積の庭が「遊戯の空間」となっています。
中でも「植物学の菜園」は、コジモの希望により薬草を育てた庭です。世界中の薬草が集められていました。19世紀には2つの温室も設けられ、片方はトロピカルな地方の植物が、片方には寒冷地方の植物が栽培されています。また1720年のセイヨウイチイや、1805年のコルクガシなど、世紀を経てきた樹木もあります。

サンマルコ庭園
老コジモによって購入され、ロレンツォ豪華王によって拡張されました。野外の美術館のような様相をしていた空間です。古代の彫刻が並べられ、若き芸術家たちが古代の作例に学んでいました。その監督官がベルトルト・ディ・ジョヴァンニというドナテッロの弟子でした。残念ながらこの空間は現在は残ってません。しかし古代文化を愛し、芸術振興に勤しんだメディチ家の最も有名な空間であったことには違いがありません。

カッシーネの公園
現在の公園は世紀を経て、多くの改築が行われてきた姿です。特に19世紀の改築が決定的なものでした。この時代に公園は上流階級限定ではなく、一般庶民に公開されることになったのです。
こうしてカッシーネの公園はフィレンツェ人の散策の場所となりました。
この空間の始まりはメディチ家の歴史につながっています。フィレンツェ大公のアレッサンドロが農場用に購入し、コジモ1世が拡張しました。当時は牛を飼ってチーズを生産し、また狩場としても使っていました。

カステッロの別荘
15世紀にメディチ家によって購入されました。この別荘は特に若きコジモ1世によって愛され、ここに大きな庭園を造成したのです。イル・トリボロによって設計され、現在も見学可能です。同芸術家はボーボリ庭園も造成しています。ヴァザーリはこの庭園のことを「ヨーロッパで最も豊かで、最も素晴らしく、最も装飾された庭である」と書いています。柑橘類のコレクションが豊かで、次世代のボーボリ庭園のモデルとなりました。
villa del castello

ペトライアの別荘
1544年にコジモ1世が、息子のフェルディナンドに贈るために購入しました。
その後、この領地を大きく開拓したのです。
それまでこの土地はpietoso e inospitale(哀れで快適ではない)土地とされ、ここからla Petraiaと云う名前がきているそうです。そのような土地を緑豊かなテラス型の庭園に改造しました。
別荘の横にはサンタマリアノヴェッラ薬局によって造成された庭に入る鉄柵の門があります。これは同修道院が市内に所有していたHortus conclususを真似たものでした。Hortus conclususとは中世の庭の典型で、修道院に作られたものです。壁に囲まれ、小さい面積の緑の空間で、修道僧たちは食用と薬用の植物を栽培していました。


絵画に表現されているHortus conclusus
庭

参照 Un giardino in palazzo Gli orti pensili della Reggia mediceo MUS.E 特別展示パンフレット

テーマ : 海外旅行記
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メディチの庭園を飾るのは…(2)

ヴェッキオ宮殿のサトゥルヌスのテラスに、2016年5月23日〜9月25日の期間、緑の空間ができています。
「un giardino in palazzo(邸宅の中の庭)」と名付けられたこの展示に関してお伝えする第4弾です。
verde in palazzo1
実際にこの展示で見ることができる植物を見ていくと、当時のメディチ家の庭園の様子を具体的に思い浮かべることできます。

野菜
ニンニク、アスパラガス、アーティチョーク、キャベツ、チコリ、タマネギ、レタス、ホウレンソウ

ルネッサンス時代の庭の大部分には野菜が栽培されていました。果実のなる木、香草、野菜です。当時の野菜は現在の食卓に上がるもののとほとんど変わりがありません。
ニンニクとタマネギは、古代から食品とともに薬品として使用されていました。
キャベツは古代ギリシャやラテン圏で最も人気のあった野菜で、ルネッサンス時代も大いに普及していました。その種類も豊富なものでした。cavolo cappuccio, cavolo nero, verza, cavolo rapa, broccoliなどです。
そしてブロッコリから15世紀の頃にカリフラワーが生まれます。
アスパラガスは古代ローマで食されていたものの、中世には姿を消し、ルネッサンス時代に蘇りました。洗練された野菜として、宮廷に好まれて食べられていたようです。
同じようにアーティチョークは古代エトルリアで食されていたものが、3世紀頃には食卓から消え、アラブ人によってヨーロッパ大陸に再上陸します。1466年に銀行家フィリッポ・ストロッツィによりナポリからフィレンツェにもたらされました。そしてその栽培がイタリア全土、さらにヨーロッパ全体に普及していったのだそうです。


果実の生る木
マルメロ、リンゴ、ザクロ、洋梨、モモ

果実に生る木はpomario(果実園)で栽培されていました。メディチ家は果実の生る木もこのんで栽培し、別荘の庭やボーボリ庭園では小型のフルーツを生らせる木のコレクションをしていました。
フィレンツェ貴族たちもその収集に熱意を持っていましたが、科学的素養に溢れていることのシンボル的な意味合いがあったためです。
貧乏人は地下に育つ野菜を食べ、果実は上流階級の食品といった風習があったことも貴族の果実園造園の大きな理由です。
古代ギリシャや古代ローマの果実園は蛮族の侵入とともに廃れていましたが、修道僧の労働によって受け継がれ、ルネッサンス時代に再生して行ったのです。
特に普及していたのはリンゴで、アジアの方から導入されたと考えられていますが、塩味の料理にも用いられていました。洋梨は種類も多く、年間を通じて食すことのできるフルーツです。
マルメロ、リンゴ、洋梨の多くの種類は花が大きく飾り用に使われていたのですが、実は酸味が強いためにジャムなどにして食されることが多かったとか。
モモは古代ローマから知られていましたが、時に白い身のものが多く、やはりポンペイのフレスコ画に表現されています。
ザクロは原始時代からアジアと地中海地方で食されてきました。多くの赤い実は豊かさの、そして血と死のシンボルでもあります。こうして宗教画にもしばしば表現されてきました。


常緑樹
月桂樹、ツゲ

地中海沿岸の地域では多くの常緑樹が見られます。それはルネッサンスの庭園にも欠かせないものでした。メディチ家の庭園にも月桂樹の生垣を活かしてあります。
伐採によって形を整えることのできる常緑樹を使い、人工的に建築物のような立方体を植木で形成することができました。
古代ローマから知られていたtopiaria(装飾的な刈り込みのこと)という生垣の造成方法によって、アーチやラビリンス、他の形を形成して、時には緑の壁龕の中に彫刻を収めたりもしました。これらは鑑賞者の目を惹き楽しませてくれたのです。自然と人間の技術の邂逅、これがルネッサンス様式の庭園なのです。


花木
カーネーション、マルゲリータ、タチアオイ

16世紀後半から、新大陸の発見と貿易業の拡大によって、東洋やアメリカ大陸の花木が発見されます。オランダでは花木の交配が行われ、ヨーロッパ中に広まっていきます。
アネモネ、チューリップ、ヒヤシンス。これらが16世紀から貴族の庭園を縁取ります。
また静物画の中にも花の様子(主に儚さの象徴でした)が見られるようになり、バロック美術の特徴の一つとなります。
しかしコジモ1世とエレオノーラの時代は、未だその潮流は訪れていませんでした。交配されていない野生の花たちが彼らの庭園を飾っていたのです。マルゲリータ、スミレ、エニシダ、ローズ、ジャスミン、アイリスなど、古代からこの地方に見られる種類でした。
カーネーションもこの時代のものは小さな花で、花弁の数も少なかったのです。
タチアオイは貴族の庭を飾るのにふさわしいと16世紀の記述に見られます。現在はその当時に比べるとあまり普及していないようです。

参照 Un giardino in palazzo Gli orti pensili della Reggia mediceo MUS.E 特別展示パンフレット

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メディチの庭園を飾るのは…(1)

ヴェッキオ宮殿のサトゥルヌスのテラスに、2016年5月23日〜9月25日の期間、緑の空間ができています。
「un giardino in palazzo(邸宅の中の庭)」と名付けられたこの展示に関してお伝えする第3弾です。

今日は実際にこの展示で見ることができる植物を見ていきます。
当時のメディチ家の庭園の様子を具体的に思い浮かべることできるのではないかな?と思います。

柑橘類
オレンジ、シトロン、レモン

遠くアジアからヨーロッパに柑橘類が導入されたのは古い歴史です。
ペルシャ人、ギリシャ人続いて古代ローマ人はすでにシトロンやレモンを知っていました。苦いオレンジ(ダイダイの実)は、10世紀にはアラブ人によってシチリア島に導入され、飾りであるのと同時に薬用になっていました。一方、甘いオレンジは14〜15世紀に入ってきます。
トスカーナではconcaと呼ばれる大きなテッラコッタ製の鉢で栽培され、寒い冬には鉢ごと屋内に移動されていました。これは今でも変わることがありません。ダイダイは冬の寒さにも強いので、壁近くに寄せて樹しょうで栽培されていました。
いつも緑の葉をつけ、花は香り高く、明るい色の果実をつける柑橘類を、メディチは特に愛したと言います。またその丸い実はメディチ家紋の丸い玉を想起させるものでもありました。
ルネッサンス時代のフィレンツェの貴族が、イタリア中に、またヨーロッパ中の宮廷にて柑橘類の栽培が流行るのに一役買ったのです。
エレオノーラは晩餐会に砂糖漬けのレモンの切り身を必ず所望したと言われます。
また夫のコジモ1世は多種の柑橘類を収集してメディチ家の別荘の庭に設置しました。その中でもカステッロ荘のコレクションは特筆すべきものです。
villa del castello


薔薇(ローゼ)
ダマスクローズ、ロザルバ、フレンチローズ

ローゼは古代から香水に、薬に、化粧品に使われてきました。また観賞用としても愛され、ポンペイのフレスコ画でも薔薇園を見ることができます。
当時のバラは現代のものに比べると香りはもっと強いものでしたが、ワンシーズンに一回しか花を開きませんでした。複数回開花する種類は、中国種のバラの交配の結果、18世紀に現れます。
そして19世紀に、コウシンバラのグループから現在見られるような形の薔薇が生み出されます。
ルネッサンス時代に普及していた薔薇は、Rosa albaと呼ばれる古代から見られるもので、白かピンクで花弁が幾重にも重なっていました。またRosa gallicaはピンクか真紅で古代ローマで普及した後に廃れ、十字軍によって再びヨーロッパにもたらされたものだったそうです。

ローゼは古代から「春」や、美しいが長続きしないもの「美しさ」「若さ」「愛」のシンボルとされていました。また愛の女神ヴィーナスの象徴であったものが、キリスト教世界ではユリとともにマリア様のシンボルの花とされます。
メディチ家の庭における薔薇の栽培は、絵画でも書面でも記録が残っています。

Rosa gallica(フレンチローズ)
フレンチローズ


香草
エストラゴン、フェンネル、ヤナギハッカ、ラヴェンダー、マジョラム、ミント、ギンバイカ、オレガノ、イタリアパセリ、ローズマリー、サルビア、ワタスギギク、セイボリー、タイム、イブキジャコウソウ

これらの強い臭いを発する植物の葉や花は古代から香水や薬や食品の保存に使われてきました。
その使用はルネッサンス時代も続き、また植物学でも多くの種類が記録されています。コジモ1世の治世では香草の使い方の研究が進められました。その記録はフィレンツェ大学の自然歴史博物館の植物学セクションに残っています。多くは薬品として使われましたが、中でもローズマリーに関しての記述はトスカーナ大公フェルディナンド1世の手紙の中にも見ることができます。
また幾つかの香草(タイム、サルビア)はヴェッキオ宮殿のコジモ1世の書斎の天井画にも描かれています。

次回に続きます!

参照 Un giardino in palazzo Gli orti pensili della Reggia mediceo MUS.E 特別展示パンフレット

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宮殿の菜園

ヴェッキオ宮殿のサトゥルヌスのテラスに、2016年5月23日〜9月25日の期間、緑の空間ができています。
「un giardino in palazzo(邸宅の中の庭)」と名付けられたこの展示に関してお伝えする第2弾です。
verde in palazzo2

ヴェッキオ宮殿のサトゥルヌスのテラスにおいてorto pensile(階上テラスに設けた菜園)が生まれました。トスカーナ大公が新しい居住にorticini(小さな家庭菜園)を作りたいと望んだためです。石造りの要塞型の建築には庭を作る空間はありませんでしたが、庭は気晴らし、娯楽、空想に耽るのに重要な空間だったのです。

orto pensileは実はすでに、ラルガ通りのメディチ家宮殿に存在していました。
このメディチ宮殿には当初、最上階内側にロッジャがあり素晴らしい柑橘類の庭があったのです。これはメディチ宮殿に限ったことではなく、他のフィレンツェ貴族の邸宅でも同様でした。

gli orticini(小さな菜園)とは「何」だったのでしょう?
辞典を引いてもorto(菜園)の小さいサイズのものを表す言葉は、orticcoloか、orticelloとなっています。
orticiniは、小さいサイズの庭で、たとえそれが大きな植木鉢や(テッラコッタ、ブロンズなど)容器だけを使ったものでも呼ぶことができます。ここに植木や野菜を植えるのです。

自然の世界を愛し興味を持っていたコジモ1世と妻エレオノーラのドゥカーレ宮殿(現ヴェッキオ宮殿)には「菜園」は欠かせないものでした。大公は自然科学を研究し、トスカーナにおいて本格的な植物学のプロモーションを行っています。
1544年にはピサの研究所に有名なイタリア人植物学者ルカ・ギーニを招待し、センプリチ庭園(センプリチェはシンプルの意味になりますが、複数で薬草を表す言葉です)を実現します。そして学術的な教育を目指し、実験を行えるラボラトリーとなりました。
そしてギーニはさらに翌年フィレンツェに植物園を創設します。この植物園は現在もサンマルコ修道院の横に存在しています。

大公夫人はメディチの多くの宮殿、別荘の庭園を整えていきました。それが新しいピッティ宮殿の庭やヴェッキオ宮殿のロッジャだったのです。

ヴェッキオ宮殿やウッフィツィ美術館内部の装飾でも、世界中から集められた植物や果物の様子がフレスコ画で表現されていきます。

残念ながらヴェッキオ宮殿のorticiniは私たちの時代まで生き残ることはできませんでした。しかし多くの資料が残されており、ルネッサンス時代の「幾何学模様に整えられた庭園」をイメージすることができます。左右対称といった庭の様子を形成するのには植木鉢はたいそう役だったそうです。

参照 Un giardino in palazzo Gli orti pensili della Reggia mediceo MUS.E 特別展示パンフレット

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伊藤裕紀子

Author:伊藤裕紀子
イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。

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