フレスコ画の天界

ドゥオーモ地区
02 /15 2018
フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内の旧聖具室(Sagrestia Vecchia)は、ブルネレスキの代表作であり、初期ルネッサンスの重要な建築です。

平面図は正方形で、奥にある空間スカルセッラは主要部分の三分の一の面積を持った正方形です。
スカルセッラとは小さい面積の四角い平面図を持った後陣、あるいは建築主要部の外部にせり出すように建設された四角い空間。スカルセッラの元の意味は「首やベルトに吊るした財布や巾着」です。

旧聖具室のスカルセッラの天井は、天界を描いたクーポラになっています。
旧聖具室4
アズライト(藍銅)や金を用いて1442年7月4日にフィレンツェで見ることができた夜空の様子を表現しています。
天文学者のトスカネッリの指示により、ペゼッロという画家が描いたと考えられています。
トスカネッリはフィレンツェのドゥオモ内の時計の発案者でもありますね。

1442年はルネ・ダンジュー(イタリア語名 Renato d'Angiò レナート・ダンジョー)がフィレンツェを訪れた年です。

ルネはフランスの王族で、ナポリ女王ジョヴァンナ2世の遺言でナポリ王位を継ぎました。この正統性を巡ってアラゴン王アルフォンソ5世と争った末に敗北、ナポリ王位を手放して1442年にフランスに戻りました。
フィレンツェに滞在したのはナポリ王位を取り返すため、フィレンツェを味方につけようとの思惑があってのことでした。
ルネは形式的にエルサレム王のタイトルを持っており、新しい十字軍が結成される折には彼が指揮官になると考えられていました。
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サン・ロレンツォ教会の旧聖具室

ドゥオーモ地区
02 /14 2018
フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内の旧聖具室(Sagrestia Vecchia)は、ブルネレスキの代表作であり、初期ルネッサンスの重要な建築です。
旧聖具室2
建築はブルネレスキ(1420〜1428年)彫刻装飾はドナテッロ(1428〜1443年)という、初期ルネッサンスを代表する二人がタッグを組んだ空間。
ブルネレスキが設計した他の建築家によって完成されたり、設計変更が入っていたりしますが、旧聖具室は彼が最後まで手がけた「唯一」の完成品です。
のちにサン・ロレンツォ教会の対照的な位置にミケランジェロ設計の聖具室がもう一つ建設されたため、ブルネレスキの方を「旧聖具室」ミケランジェロの方を「新聖具室」と呼びます。

1418年 パッラ・ストロッツィがサンタ・トリニタ教会内に家族用の礼拝堂建設をギベルティに依頼
1420年 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチがブルネレスキに家族を弔う礼拝堂を依頼(この年にジョヴァンニは息子のコジモにメディチ銀行の経営を任せています)ジョヴァンニは上のストロッツィ家の礼拝堂からインスピレーションを受けて建設を思い立ったとされます。
1421年 ブルネレスキがサン・ロレンツォ教会全体の再建工事を任されます。
1428年 旧聖具室完成
1429年 ジョヴァンニの葬式が旧聖具室で執り行われます。
1433年 部屋中央のテーブルの下にジョヴァンニと妻ピッカルダの墓が設けられます。ドナテッロとブッジャーノ共作。ブッジャーノはブルネレスキの養子です。
旧聖具室3

平面図は正方形で、奥にある空間スカルセッラは主要部分の三分の一の面積を持った正方形です。
スカルセッラとは小さい面積の四角い平面図を持った後陣、あるいは建築主要部の外部にせり出すように建設された四角い空間。スカルセッラの元の意味は「首やベルトに吊るした財布や巾着」のことです。

ドナテッロによる2枚のブロンズ製の扉は、古代の建築要素をルネッサンス時代の建築に取り入れた最初の例の一つで、トライアーノのフォロ(トライヤヌスのフォルム)から影響を受けています。
それぞれの扉は「殉教者の扉 Porta dei Martiri」「使徒の扉 Porta degli Apostoli」となります。

主要部分の直径は20ブラッチャ、屋根は傘型のクーポラで骨によって12の部分に分けられています。
旧聖具室1

サン・ロレンツォ教会 合理的な美の理念

ドゥオーモ地区
02 /07 2018
ルネッサンス時代の天才建築家ブルネレスキが、フィレンツェのドゥオーモの丸屋根を設計した経緯について前回の日記で書きました→「天才建築家ブルネレスキの剛胆と理知

クーポラ以外に、ブルネレスキは生涯に3つの教会堂を設計しました。
2つは長堂式(細長い廊下のような空間の身廊)→サン・ロレンツォ教会、サント・スピリト教会
1つは集中式(平面図が点対称)→サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会
3つの聖堂の中で彼が最初に建設を行ったのがサン・ロレンツォ教会です(1421年起工)
サンタ・クローチェ教会、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、サンタ・トリニタ教会といったフィレンツェの典型的な中世の教会からインスピレーションを受けながら、厳格さを増し革新的な結果をもたらしています。それを可能にしたのが…

「身廊と側廊を分ける柱列の間隔が基本的な構成単位とする」ことです。
 →側廊の幅は同じ幅
 →身廊の幅はこれの倍
 →袖廊も身廊と同じ構成
 →交差部奥のアプシスの幅は倍

ルネッサンス時代の建築は、明快なリズム感のある構成が特徴なのです。
サン・ロレンツォ3

サン・ロレンツォ教会のスパン(柱間の距離)は11ブラッチェ(19世紀まで使用された長さの単位、フィレンツェのブラッチョは0,5836m)
ちなみにサン・ロレンツォよりも2年前にブルネレスキが設計した捨て子養育院ファサードのスパンは10ブラッチェです。
サン・ロレンツォ2
教会内部に繰り返される基本単位、そのリズム感を際立たせるのが白い漆喰の壁と灰色砂岩の円柱やレゼーナ(壁の一部から浅く張り出した柱)です。

そして内部が非常に明るいのはクリアストリー(教会身廊と側廊を分ける採光用の高窓が並んだ側壁の層)のおかげです。
イタリア語ではcleristorio(クレリストーリオ)あるいはclaristorio(クラリストーリオ)と呼びます。
この建築要素はすでに古代ローマで使われていたもので、ヘレニズム文化の影響から来ていると考えられています。
サン・ロレンツォ1
クリアストリーの窓がステンドグラスではないため明るい光が聖堂内に入り、白い格天井に反射しています。
格天井とは格間(正方形、長方形、八角形などの形状のくぼんだパネル)で覆われた天井です。
古代ギリシア、古代ローマに石造りの格間が存在しました(ローマのパンテオンでドームの重量を軽くするために使用)

天才建築家ブルネレスキの剛胆と理知

ドゥオーモ地区
02 /05 2018
ルネッサンス時代の万能の天才はレオナルド・ダ・ヴィンチばかりではありません。
天才建築家フィリッポ・ブルネレスキは以下の肩書を持っていました。

建築家
彫刻家
画家
算術家
造船家
幾何学者
水力学者
軍事技師
舞台美術家


公証人の家に生まれながら機械いじりが大好き、金細工の工房で宝石加工から歯車の仕組みを学び、わずか21歳で洗礼堂のブロンズの扉のコンクールに参加します。

結果はギベルティとの共作。これを辞退したブルネレスキは友人のドナテッロとローマに赴き、古代ローマの建築を研究します。

『ブルネレスキ伝』byアントニオ・マネッティ
「フィリッポの支持者は(洗礼堂の扉の)全てが彼に委託されなかったことを残念がった。
 しかし成り行きから見ると、フィリッポを待っていたのはこれ以上のことだったのである!」

フィレンツェに戻ったブルネレスキは、1418年のドゥオモのクーポラ(丸屋根)建設コンクールで優勝します。
この時にブルネレスキは高さ5m、レンガ6千個以上を使った模型を用意して、仮の支柱無しでクーポラを建設できると主張しました←模型にはドナテッロとナンニ・ディ・バンコも協力。

審査員はブルネレスキの斬新な案を信用しきれず、ギベルティと現場監督ダントーニオの3人体制に工事を任せます。
ところがブルネレスキは仮病を使って現場を休み、ギベルティは工事を進めることができずに首になってしまいました。ブルネレスキのリベンジですね。

単独イニシアチブを取れるようになったブルネレスキは

◉石材やレンガの巻上げ機(タッコラ)を発明
◉矢筈(やはず)積みを利用して仮の支柱無しにクーポラ建設
◉400万個のレンガの質をチェック
◉内外二つの殻面からなる二重殻構造にする
◉木材の環状構造と、クランプ(繋ぎ金具)で結びつけた石材でドームを補強

※ちなみに矢筈模様はイタリアではspinapesce(スピーナペーシェ 魚の骨)と呼ばれます。

こうしてブルネレスキは16年の歳月で「地上50m以上から、内径45,2mの空間を覆い、さらに33,7mも立ち上がる」巨大建築クーポラを完成させたのです。

ドゥオモの横でクーポラを見上げるブルネレスキの像
ブルネレスキ

参照 「イラストで読むルネサンスの巨匠たち」杉全美帆子 河出書房新社
「フィレンツェ・ルネサンス 2 美と人間の革新」 日本放送出版協会

聖ロレンツォの殉教

ドゥオーモ地区
01 /29 2018
フィレンツェのサン・ロレンツォ教会に大きなフレスコ画「聖ロレンツォの殉教」(ブロンズィーノ作)があります。
san lorenzo
ブロンズィーノが描く人物達のねじれたポーズには、ラファエロやミケランジェロからの影響が見えます。

ロレンツォ(ラウレンティウス)はスペイン生まれの3世紀の聖人です。
ローマ教皇の執事として、教会財産の管理と、貧しい人々への施しを担当していました。ローマ皇帝の命により逮捕されたロレンツォは、生きながら熱した鉄格子の上で火あぶりにされました。その時に兵士に向かって「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」と言ったというエピソードがあります。

フィレンツェを支配したメディチ家の中には「ロレンツォ」の名を持った人物が何人かいます。メディチ邸宅に近いこの教会の名前から由来しているのでしょうか?

またフィレンツェ名物料理に「Tボーンステーキ」がありますが、メディチ家は8月15日のサンロレンツォの祭りに牛肉を焼き、庶民に振る舞っていたとか。
火あぶりの刑に処され聖ロレンツォの祭りにステーキを焼く。
なんだかとってもブラックジョークに感じるのは私だけですか?

ちなみに上のフレスコ画を描いたブロンズィーノも貧しい肉屋の息子だったそうですよ…

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住25年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。