スイカ売り禁止

フィレンツェ市
07 /15 2017
フィレンツェの支配者として君臨したメディチ家。
そのライバルであったストロッツィ家が、メディチ邸スタイルを真似ながら建てさせたのがストロッツィ宮殿です。
昨日の日記で、この宮殿の歴史について書きました→「メディチより大きな宮殿を!

宮殿の横の広場はルネッサンスの時代から食品の商いに使われてきたとか。
ストロッツィ宮殿3
このような経済活動は広場に毎日、大量のゴミを発生させ、もちろんストロッツィ家にとっては不満の種でした。
中世の町は城壁で囲まれていましたから、広場は貴重な空間。
シニョーリア広場はフィレンツェ共和国の政治の中心、教会前の広場は宗教的・世俗的イベント会場、それ以外の広場は市場として使われていたんですね。

1762年、ストロッツィ家の希望によりOtto di Balia委員会は、広場の壁にプレートを貼りました。
ストロッツィ宮殿4
「スイカ、フルーツ、古い鉄の広場での販売を禁ず。反するものは罰せられる」

Otto di Guardiaまたの名をOtto di Baliaは、フィレンツェの古い司法府です。
フィレンツェ共和国の、のちにはトスカーナ大公国の警察ですね。14世紀に8人の人物が司法府を任されたのが始まりなのでotto(8人)という数字がついているのです。

標札を見ると、罰金は5リラと書かれています。
当時の5リラ、どのぐらいの価値なんでしょうね?
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メディチより大きな宮殿を!

フィレンツェ市
07 /14 2017
フィレンツェのストロッツィ宮殿は、イタリアでも最も「ルネッサンス風の宮殿」の一つです。
以前に存在していた15の建築を取り壊した空間に建設された、大きな宮殿です。
宮殿2階にてしばしば行われる特別展の様子を、この日記でも紹介してきました。
ストロッツィ宮殿1
ルネッサンスのフィレンツェ市民の邸宅として代表的な存在であり、フィリッポ・ストロッツィの希望により建設されました。
フィリッポはフィレンツェの裕福な商人で、メディチとはライヴァル関係にありました。

1434年 ストロッツィ家はメディチ家に敵対した為、フィレンツェから追放されます。
1466年 ナポリで銀行家として成功したフィリッポはフィレンツェに帰還、宮殿の建設を決意します。

土地の買収にはロレンツォ豪華王の力添えがあり、ストロッツィ家に対する条件は
「公証人による承認の同年に着工すること」
「建設は中断なく行われること」
これらが破られた場合は土地没収の罰が与えられることになっていました。

1489〜1490年 ジュリアーノ・ダ・サンガッロにより建設モデル
(しかしヴァザーリはロレンツォ豪華王のお気に入りの建築家ベネデット・ダ・マイアーノの名を挙げています)

1489年 着工
1491年 フィリッポ・ストロッツィ逝去
1507年 地上階に住み始める
ストロッツィ宮殿2
最上階に差し掛かった頃にベネデットは亡くなり、シモーネ・デル・ポッライオーロ(またの名はイル・クロナカ)があとを継ぎます。

1538年 バッチョ・ダーニョロの手により完成。

1864年 ジュゼッペ・ポッジにより、トルナブオーニ通り側のpanca di via(通りのベンチ)が取り付けられます。

メディチ宮殿に似ていますが(三階建て、外壁はブニャート仕上げなど)さらに大きな宮殿を作ろうとしたフィリッポの意図が見られます

宮殿は1937年にINA(Istituto Nazionale delle Assicurazioni)によって買い取られるまで、ストロッツィ家が所有し続けました。
1999年からは国有となっています。

洗礼者の首を受け取るヘロデア ベルナルディーノ・ルイーニ

シニョーリア広場地区
07 /06 2017
ウッフィツィ美術館、トリブーナの後に続く部屋には15世紀〜16世紀初期の北イタリアの画家の作品が並んでいます。
あまりグループ観光では通らない部屋ですが、ここに置かれている作品をチラッと紹介していくシリーズです。

「第23室 15世紀ロンバルディア地方 QUATTROCENTO LOMBARDO」
『洗礼者の首を受け取るヘロデア』ベルナルディーノ・ルイーニ
1527年ごろ 板絵テンペラ
eroide
この作品はウィーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)との作品の交換によってフィレンツェに来ましたが、当時はレオナルドの作品と考えられていました。
現在はロンバルディア地方のベルナルディーノ・デ・スカピス(ベルナルディーノ・ルイーニ)の作品とされています。
ルイーニとその工房の作品として、少なくとも6枚の同じテーマを扱ったバリエーションが存在します。
その中でもウッフィツィに展示されているものは、柔らかい明暗を使った、最もレオナルドの作風に近い作品です。
タイトルには「ヘロデア」の名前が付いていますが、首を受け取る若い女性はヘロデアなのか、その娘のサロメなのか判明していません。
この女性の顔はパルマの美術館にあるレオナルドの作品と酷似しています。
scapigliatura
ルイーニはレオナルドと直接仕事したと言われ、彼の作品の多くがレオナルドの作品とみられてきたほどに、多くの影響を受けています。
また彼が描くうっすらと開いた目をした優雅な女性像はルイーニの名から『ルイネスク』と呼ばれています。
マッジョーレ湖付近のルーノで生まれたルイーニは、ミラノやトレヴィーゾ、モンツァ、パヴィアなどで仕事をしました。

受胎告知 メロッツォ・ダ・フォルリ

シニョーリア広場地区
07 /05 2017
ウッフィツィ美術館、トリブーナの後に続く部屋には15世紀〜16世紀初期の北イタリアの画家の作品が並んでいます。
あまりグループ観光では通らない部屋ですが、ここに置かれている作品をチラッと紹介していくシリーズです。

「第22室 15世紀エミリア・ロマーニャ地方 QUATTROCENTO EMILIANO-ROMAGNOLO」
『受胎告知』『使徒と聖プロスドチモ(裏面)』
メロッツォ・ダ・フォルリ 1460年ごろ 板絵テンペラ
melozzo
おそらくタベルナーコロか、パイプオルガンの前面の扉として描かれた作品です。教会の家具にはこのような人物像が描かれた扉が付いていることが多かったのです。
受胎告知の反対側には、洗礼に使うツボを持っている姿から判明できる、パドヴァの最初の司教であった聖プロスドチモが描かれています。
彼の存在からアドリア海側、北部の地域のために製作された作品であることがわかります。

メロッツォは、短縮遠近法を使った最初の人物で、フレスコ画家として有名です。
フォルリで裕福な家系に生まれたらしいメロッツォは、アンドレア・マンテーニャから影響を受けています。
また一時期をウルビーノ公国にてフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公に仕え、そのピエロ・デッラ・フランチェスカと出会い遠近技法を学びます。
その後ローマに移動、ローマ教皇シクストゥス4世から大きな仕事を任され、聖ルカ・アカデミーのオリジナル・メンバーの一人に選ばれます。
現代まで残った彼の作品はそれほど多くはないのですが、絵画の進歩に貢献した画家とされています。

聖セバスティアーノ ロレンツォ・コスタ

シニョーリア広場地区
07 /04 2017
ウッフィツィ美術館、トリブーナの後に続く部屋には15世紀〜16世紀初期の北イタリアの画家の作品が並んでいます。
あまりグループ観光では通らない部屋ですが、ここに置かれている作品をチラッと紹介していくシリーズです。

「第22室 15世紀エミリア・ロマーニャ地方 QUATTROCENTO EMILIANO-ROMAGNOLO」
『聖セバスティアーノ』ロレンツォ・コスタ 1490年ごろ 板絵テンペラ
lorenzo costa
若い聖人の半身を描いたロレンツォ・コスタ活動中期の作品です。
円柱に縛り付けられた聖セバスティアーノは、「エッケ・ホモ」か「円柱のキリスト」を想起させるモチーフです。
フェッラーラ派の偉大なマエストロの作風を引き継いでいます。特にエルコレ・デ・ロベルティの影響が大きく、モニュメンタルなモードと、1483年にボローニャに移った後に受けたヴェネツィア派の自然な色使いを合わせています。
作品は1906年にウッフィツィ美術館のコレクションに仲間入りしました。

コスタはフェッラーラ派のコズメ・トゥーラのもとで修行したという説もあり、20代の頃にボローニャに移ります。
後にマントヴァに行き、そこでゴンザーガ家のフランチェスコ2世をパトロンとして、死ぬまでその地で活動します。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。