サント・スピリト教会の年表

アルノ河南地区
09 /10 2017
フィレンツェ、アルノ河の南岸にあるサント・スピリト教会の年表をまとめました。

1250年 アルチェートリの貴族がアゴスティーノ修道僧に教会用の土地を与える。

1269年 アゴスティーノ修道会がフィレンツェに定着。祈祷所があった場所に「サント・スピリト(精霊)」に捧げた教会を建築。

13世紀 フィレンツェは外部からの人口の流入に伴い町を拡大。サンタ・トリニタ橋や、アルノルフォ・デル・カンビオによってより多くの土地を囲う新しい市壁が建設された。サント・スピリト教会は新しい市壁の中の土地に含まれる。

1284年 フィレンツェのアゴスティーノ修道会は「Studio generale dell'Ordine」と呼ばれ、神学や哲学を研究する施設となる。

1292年 アゴスティーノ修道僧の説教を聴きにくる大衆のために教会前に広場が設けられる。

1350年 修道院所属の図書館は豊かな蔵書コレクションを持ち、文学者や芸術家が集う施設となる。

14世紀にペトラルカが修道院に住み、アゴスティーノ著「告白」から影響を受けて「我が秘密」を執筆し、ボッカッチョも通った。修道僧の僧房は人文主義者の集会所となり、15世紀にはレオナルド・ブルーニやニッコロ・ニッコリなども顔を揃えた。

1397年 フィレンツェ政府は新しいサント・スピリト教会の建設に資金を出すことを決定。

1444年 ブルネレスキの設計により着工、偉大な建築家の最後の大きな仕事だった。
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1446年 ブルネレスキ死去。

1452年 建設主任はアントニオ・マネッティ、ジョヴァンニ・ダ・ガイオーレ、サルヴィ・ダンドレーアの3人に。

1471年 火事により、教会内の中世の作品大部分が被害を受ける。

1481年 教会が聖別される。

1489年 ジュリアーノ・ダ・サンガッロにより聖具室が建設される。
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1492年〜 ミケランジェロが修道院にて遺体解剖研究、感謝の印に磔刑像を彫る。
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1493年 フィリッピーノ・リッピ作「ネルリ祭壇画」
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17〜18世紀 多くの改築が施される。

1599〜1608年 ジョヴァンニ・カッチーニとゲラルド・シルヴァーニによるバロック式の天蓋付き祭壇
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19世紀 ファサードが漆喰によって覆われる。
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ヴェッキオ橋の年表

アルノ河南地区
09 /03 2017
フィレンツェで最も古い歴史を持つヴェッキオ橋の年表をまとめました。

紀元前1世紀中頃 今の橋がある場所よりも少し山寄りに橋が建設される。フィレンツェに植民都市が建設されて少し後のことだった。

123年 新しいカッシア街道の整備にともない、橋の補強が行われる。橋台は壁作りであったが、上部の組み立ては木造だった。

6〜7世紀ごろ 最初の橋が洪水によって流される。

この後、橋が何回流され、何回作り直したのか、資料の少なさからわかっていない。カール大帝の指示のもとに橋が建設されたとヴィッラーニ(フィレンツェで13世紀に生まれた歴史家)が記述している。

9〜10世紀ごろ 今のヴェッキオ橋がある位置に橋が存在した。

1177年 崩落の後、橋が建設し直される。

1222年 洪水による被害

1322年 洪水による被害

1333年 洪水によって橋が流される。

1345年 タッデオ・ガッディあるいはネーリ・ディ・フィオラヴァンテによって橋が建設し直される(現在のヴェッキオ橋)

1442年 フィレンツェ共和国政府が橋の上に肉屋を並べるように指示(中心の住宅群から肉屋を分離するため)

1565年 メディチ家のコジモ1世のために「ヴァザーリの回廊」が建設される。ヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ廊下はヴェッキオ橋の上部を通過するルートとなる。
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1593年 フェルディナンド1世が肉屋の匂いを遠ざけるため、橋の上の肉屋を撤去し貴金属の工房を並べる。
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1860年 イタリア統一、イタリア王の訪問にともない、ヴェッキオ橋上のヴァザーリの回廊の窓が3つ改築される。

1901年 橋の中央部に「チェッリーニの胸像(ロマネッリ作)」が設置される。
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1938年 ヒットラーとムッソリーニがヴェッキオ橋を訪問する。

1944年 ドイツ軍の撤退の時にヴェッキオ橋以外の橋は破壊される。ヴェッキオ橋を破壊しなかったのはドイツの高官Gerhard Wolfの判断のおかげとされ、戦後に彼はフィレンツェ名誉市民の称号をもらっている。ヴェッキオ橋の上には彼を称えたプレートがある。
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サン・ミニアート・アル・モンテ教会の年表

アルノ河南地区
08 /31 2017
ミケランジェロ広場の裏手の丘の上に建つサン・ミニアート教会。ミケランジェロが「美しい田舎娘」と形容したロマネスク様式の教会です。
年表のうち、建築に関する項目は紫色で書いてあります。

250年 ギリシャの商人か、ローマに巡礼の旅に向かうアルメニアの王子であったいうミニアートが、この年にフィレンツェで殉教。断頭されるも自分の頭を抱いて丘の上に登り絶命したという伝説があります。

8世紀 聖人が亡くなった場所に礼拝堂が建ちます。

1013年 礼拝堂があった場所に教会を建設。最初はベネディクト修道会の教会でした。

1207年 教会内部の床の象嵌細工。ロマネスク様式の説教壇。
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1260年 ファサードのモザイク「聖母とミニアートの間のイエス」
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1288年〜 カリマーラ(毛織物の商いの同業者組合)が教会のメンテナンスの責任を持ちます。

1297年 後陣のモザイク「聖母とサン・ミニアートの間のイエス」
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1341年 タッデオ・ガッディによりクリプタ(地下際室)のヴォールトが装飾されます。
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1373年 オリヴェート修道会(現在まで)の教会となります。

1387年 スピネッロ・アレティーノ作、聖具室のフレスコ画「サン・ベネディクトの一生」
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1448年 ミケロッツォ作「磔刑の礼拝堂」
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1459〜1467年 ポルトガル枢機卿の礼拝堂
 プロジェクト→アントニオ・ロッセリーノ
 墓碑→ロッセリーノ兄弟
 祭壇画とフレスコ画→ポッライオーロ兄弟 
 受胎告知→アレッソ・バルドヴィネッティ
 釉薬陶器の天井→ルカ・デッラ・ロッビア
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1530年 カール5世の軍隊にフィレンツェが包囲された時、大砲を教会の鐘楼に設置する工事をミケランジェロが担います。

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会の年表

アルノ河南地区
08 /30 2017
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会にはルネッサンスの至宝「ブランカッチ礼拝堂」があります。
ルネッサンス初期の革新的なマザッチョの作品から学ぼうと多くの画家が集まり、「世界の学校」とヴァザーリから呼ばれた礼拝堂。後世の火事でも教会の中で奇跡的に燃え残った空間です。この教会と礼拝堂の年表をまとめました。
建築に関する項目は紫色で書いてあります。

1268年 カルメル修道会の教会として着工。
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1328年 フィレンツェ共和国政府が近辺の土地(5番目の市壁拡張で囲まれた土地)を使うことを許可し、最初の増築。

1424〜28年 ブランカッチ礼拝堂にマザッチョとマゾリーノのフレスコ画装飾。
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1464年 増築により参事会ホールと食堂などが作られる。

1480年 未完であったブランカッチ礼拝堂のフレスコ画がフィリッピーノ・リッピによって完成される。

1512年 主祭壇にベネデット・ダ・ロヴェッツァーノ作「ピエル・ソデリーニの墓碑」ソデリーニ死去(1522年)前に制作された。ソデリーニは1502年にフィレンツェ共和国の元首である正義の旗手(終身)に選ばれた人物。

1560年 ヴァザーリ作「磔刑図」身廊右手の礼拝堂。

1597〜1612年 修道院中庭が建設される。現在、ここがブランカッチ礼拝堂への入り口。
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1582年 修道院食堂にアレッサンドロ・アッローリ作「最後の晩餐」

1675年 ピエル・フランチェスコ・シルヴァーニによって「コルシーニ礼拝堂」が建設される。ローマで流行していたバロック様式のフィレンツェデビューとなる。
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1771年 火事により大きな被害を受ける。ブランカッチ礼拝堂とコルシーニ礼拝堂は破壊を免れる。

1775年 ジュゼッペ・ルッジェーリにより修復工事が始まる。
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参照「Firenze e provincia」 Touring club italiano

ピッティ宮殿の年表

アルノ河南地区
08 /26 2017
アルノ川の南岸に位置するピッティ宮殿、メディチ家の宮殿として長く使われました。メディチ家のあとはロレーヌ家、ナポレオン、サヴォイア家の居住となり、現在は国立美術館となっています。ピッティ宮殿の年表をまとめました。
建築に関する項目は紫色で書いてあります。

1458年 ピッティ家の邸宅としてブルネレスキの設計により着工。しかしこの年にはすでにブルネレスキは死去していたため、ルカ・ファンチェッリの設計とする学者もいる。
「ピッティ宮殿の前のルカ・ピッティ」
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1549年 コジモ1世と妻のエレオノーラ・ディ・トレドがピッティ邸を購入、ヴェッキオ宮殿から移り住む。

1551年 ニッコロ・トリボロにより庭の整備が始まり、アンフィテアトロが建設される。

アンフィテアトロから見るアンマンナーティの中庭
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1558年 アンマンナーティによる増築が始まる。扉を増やし、インジノッキアーティの窓、中庭など。

1583〜1593年 ボーボリ庭園にブオンタレンティによって「大きな洞窟 グロッタ・グランデ」建設。

Utensのルネッタに見る1599年ごろのピッティ宮殿
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1618年 ジュリオ・パリージによる増築。2階と3階を横に延長し、窓を増やす。

1640年 アルフォンソ・パリージによる増築、地上階と2階を横に増築。

1764〜65年 ジュゼッペ・ルッジェーリによる増築。


1765年 ロレーヌ家ピエトロ・レオポルドがトスカーナ大公となり、ピッティ宮殿に住む(1790年まで)

19世紀初め ナポレオンがイタリア王となり、フィレンツェ滞在時にピッティ宮殿を使う。

1814〜1860年 ナポレオン失脚により、ロレーヌ家がトスカーナ大公に返り咲いて治める。

1833年 レオポルド2世によりピッティ宮殿の一部が一般公開される。

1839年〜 パスクワーレ・ポッチャンティによる増築でファサードが現在の長さ(205m)に。

1865〜71年 フィレンツェがイタリアの首都になり、サヴォイア家のエマヌエーレ2世が住む。

19世紀のピッティ宮殿ファサード。
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参照「Firenze e provincia」 Touring club italiano

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。