ヴォルテッラのサン・ジョヴァンニ洗礼堂

ピサ県
05 /13 2017
ヴォルテッラのドゥオーモの正面に建つのがサン・ジョヴァンニ洗礼堂です。
ヴォルテッラ洗礼堂1
建築は13世紀に遡ります。
八角形の平面図を持ち、ドゥオーモ側の外壁は、白と緑の2色の石によってストライプ模様の大理石装飾が施されています。
ロマネスク様式の扉口はニコラ・ピサーノの工房作品とされています。

内部には6方向に壁龕があります。
ヴォルテッラ洗礼堂2
天井はクーポラで覆われていて、ブルネレスキのデザインによると言われる、15世紀のものです。
入り口と反対側の面には祭壇(17世紀)があり、祭壇周りのアーチはミーノ・ダ・フィエーゾレの工房デザインです。ドゥオーモ内部に続き、洗礼堂にもこの芸術家に関連の作品があるのですね。
祭壇画は「昇天」ニッコロ・チェルチニャーニ(近郊のポマランチェの画家)の16世紀の作品です。この作品の上部は第二次世界大戦の折に被害を受けました。

洗礼盤は二つ置かれています。
◉祭壇右の洗礼盤 アンドレア・サンソヴィーノ(16世紀)
◉中央の洗礼盤 ジョヴァンニ・ヴァッカ作(18世紀)中央には洗礼者ヨハネ像 Giovanni Antonio Cybei作(18世紀)

そして入口のすぐ右には角柱の上に丸い石の壺のようなものが置かれているのですが、これはエトルリア時代のチッポ(境界標識)を利用した聖水盤です。
古代エトルリアの時代に重要な都市であったヴォルテッラには、エトルリアの古墳なども残っていますが、このチッポのリサイクル利用はとても面白いですね。
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ヴォルテッラのドゥオーモ

ピサ県
05 /12 2017
トスカーナ州はピサ県ヴォルテッラの町を紹介するシリーズ、今回は大聖堂です。

ヴォルテッラのドゥオーモは「サンタ・マリア・アッスンタ教会」
duomo di vo1
1957年に法王から「basilica minore」に指定されました。バジリカはローマ教皇により、一般の教会堂より上位にあることを認められた教会堂のことです。

〜歴史〜
4世紀? 最初の教会堂建設?
9世紀  教会堂があった記録
1117年 地震により崩壊したのち、再建
1120年 カリスト2世により聖別
1254年 ファサードがニコラ・ピサーノによって建設される。扉周りの大理石はVallebuonaのローマ劇場の石を再利用。
15世紀 サンソヴィーノによって鐘楼が建設される
1842-1843年 壁や床を修復

〜内部〜
duomo di vo3
ラテン十字形で、身廊は24本の円柱により3つに分かれています。後期ルネッサンススタイル。
柱には赤い花崗岩に見せかけるために漆喰が塗ってあります。
格天井は美しい幾何学模様や花模様、聖人の装飾で、16世紀の作品。
身廊の礼拝堂には16世紀の絵画作品が展示されています。

◉「聖母への町の奉納」Pieter de Witte (1578)
◉「聖母の生誕」Francesco Curradi
◉「マリアの神殿奉献」Giovan Battista Naldini
◉「聖セバスチャンの殉教」Francesco Cungi (1587)
◉「受胎告知」Fra Bartolomeo Della Porta (1497)
◉「無原罪の御宿り」Niccolò Circignani
16世紀のフィレンツェを代表する画家たちの作品が並んでいます。当時はヴォルテッラはすでにフィレンツェの支配下にあったのです。

◉説教壇 12世紀の作品を16世紀に再び組み立てたもの。柱や柱頭は12世紀のものです。浮き彫りの部分はピサ(おそらくグリエルモ派)の芸術家に手によります。
duomo di vo4

◉主祭壇 チボリウムはMino da Fiesole (1471)作品で、12世紀のねじれた円柱の上の天使型ロウソクたてもミーノの手によります。

◉主祭壇右の礼拝堂には貴重なロマネスク様式の木彫りの「十字架降下」があります(1228)この教会で一番古い作品です。豊かな色彩が特徴。
duomo divo2

◉主祭壇左 キエリチ礼拝堂には1520年頃のFrancesco di Valdambrino作「聖母子」があります。この芸術家はシエナの彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャの弟子で友人でした。
duomo di vo5

また教会堂の出口付近から本堂外部の礼拝堂に入ることができます。
◉イエスの聖なる名前の礼拝堂 聖ベルナルディーノが描いたtrigrammaの板が展示されています(trigrammaはイエスの名前を三文字IHSと十字架を組み合わせた図案化したもの)

◉嘆きの聖母の祈祷所 「東方三博士の礼拝」背景はフレスコ画でベノッツォ・ゴッツォリ作です。前面にはテッラコッタのプレセーピオ(アンドレア・デッラ・ロッビア作)が設置されています。

ヴォルテッラのプリオーリ宮殿

ピサ県
05 /11 2017
ヴォルテッラのプリオーリ広場には、この町の政教の中心であった建築が並んでいます。
この広場は以前は「prato episcopale 司教の芝生」とか「piazza del Olmo ニレの木の広場」「 piazza maggiore 大きな広場」と呼ばれてきました。9世紀中頃から重要な市が開催されていたそうです。

◉プリオーリ宮殿 1208〜1257年
◉ヴェスコヴィーレ宮殿(司教館) 1472年から司教の館に。それまでは有力市民の邸宅。
◉インコントリ宮殿(以前は神学校、現在はヴォルテッラ貯蓄銀行)
◉プレトーリオ宮殿(最初はcapitano del popolo〜中世の都市国家の軍事組織の市民隊長〜の本部。現在は治安判事が使用)13世紀のいくつかの建築を合併したものです。
◉子豚の塔 1224年 広場で一番高い塔をコムーネが買収し、ポデスタの本部として使っていました。子豚の像はイノシシという説もあります。
◉モンテ・ピオ宮殿 20世紀初め(中世には塔型住居が建っていた場所。17世紀から穀物貯蔵庫だった)
以上の建築が立ち並んでいるのですが、中でも重要なプリオーリ宮殿についてまとめます。

ヴォルテッラのプリオーリ宮殿はトスカーナ地方で最も古いコムーネ(自治都市)の宮殿です。
プリオーリ
例えばフィレンツェのヴェッキオ宮殿は1299年着工ですから、それよりも90年ほど前です。
(フィレンツェではヴェッキオ宮殿よりも先に、バルジェッロ宮殿が1255年に自治都市の政府の建物として着工されています)

宮殿の建築は神聖ローマ帝国のイルデブランド・パンノッキエスキ男爵の意向で、リッカルド・ダ・コモ工匠に任されました。
1208年 着工
1234年 地上階が使用されるようになります。
1257年 完成、コムーネの長老会議の住居として使用。長老会議(Anziani)のメンバーは24人→後に18人の執政官(Priori del Popolo)
1283年 12人の市民防衛者(Difensori del Popolo)が使用。
1472年 フィレンツェがヴォルテッラを支配し、フィレンツェの司法長官(capitano di giustizia)が使用。
1846年 地震で崩壊した鐘楼を復元

ファサードを飾る釉薬陶器の家紋は、司法長官を務めたフィレンツェの有力家族のもので、15世紀に付けられました。
建築外部の角にはフィレンツェ共和国の紋章を持つ2頭のライオンの像もあります。

建設にはそれぞれの地方の長さの単位を使うのですが、地方によって差があります。
ヴォルテッラでは…
ブラッチョ→63cm (フィレンツェでは58cm)
カンナ→2,52m(4ブラッチョ)

2階には議会の間(la Sala del Consiglio)があり、今でも市の会議所として使われています。横には礼拝堂も残っています。
3階は長老会議メンバー、さらにプリオーリのメンバーの寝泊まりする場所でした。大きなホールは食事用ホールや集会所として使用されました。
最上階は台所と薪の倉庫。荷物は宮殿の中庭から貨物昇降機によってこの階まで運ばれていました。

美術品
◉「受胎告知」1398年 ヤコポ・ディ・チオーネ・オルカーニャ 議会の間
◉議会の間の他のフレスコ画は19世紀
◉「磔刑図とフィレンツェの聖人たち」1490年 ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノ

ちなみにこの宮殿内部は映画の「New Moon」の第二作「Twilight」の撮影に使用されました。

ヴォルテッラのエトルリアの門

ピサ県
05 /10 2017
エトルリア文明の主要都市であったヴォルテッラには、その時代の門が残っています。
アーチ門2
La Porta dell'Arco(アーチの門)と呼ばれ、紀元前4〜3世紀の建築物であるとされています。
当時の町を守っていた壁の一部、南側の門でした。ちなみに町の反対側、北側にはディアナの門がありましたが、側柱しか残っていません。おそらく上部は木製であったため残っていないと考えられています。

「アーチの門」は他の町に残っているエトルリア時代の門と似ており、ローマによるヴォルテッラ征服時にも破壊されなかった数少ない建築の一つです。

凝灰岩の大きなブロックでできています。色彩が豊かなのは3色の石を使っているからで、側柱は黄色がかった石、アーチは灰色、3つの頭部彫刻は赤茶けています。

3つの頭部はユピテルと町の守護神であるカストルとポリュデウケス(ユピテルとレダの間に生まれた双子)という説と、ユピテルとウニ(エトルリアの女神でローマ神話のユノーにあたる)とミネルヴァという説があります。
このように三人組の神を表現したモチーフをtriadeと呼びます。

市壁の上にこのように頭部を飾るモチーフは、古くに敵の武将の頭を壁に掲げ、敵に警告を与える習慣から由来しています。

そして頭部を含むアーチの部分は後に改築された部分です。
門は部分によって3つの時代に建設されたものなのです。
紀元前4〜3世紀 左右の柱の部分がエトルリア時代
紀元前1世紀  上のアーチの部分がローマ帝国時代の改築
13世紀     アーチが組み込まれ市壁が中世

1944年にはナチスがアメリカ軍を通さないように、この門を破壊しようとしました。市民の反対を受け、ナチスは市民に24時間の猶予を与えます。
そこで市民は小石などで門を埋め、アーチを守ったそうです。

町の内部から見たアーチ門
アーチ門1

グラナッチ考古学博物館

ピサ県
05 /06 2017
ピサ県のヴォルテッラは古代エトルリア主要都市でした。
したがってこの町にあるグラナッチ考古学博物館が豊かなエトルリア文化の遺産を所有しています。
granacci
18世紀の高位聖職者マリオ・グラナッチのコレクションが中心です。エトルリア関連ではイタリアでもっとも重要な展示で、600もの骨壷を所有しています。グラナッチは1761年にコレクションを町に寄贈します。彼よりも30年ほど前の司祭フランチェスキーニのコレクションを加え大きな文化遺産となりました。
ヴィッラノーヴァ時代の古墳からの発掘品から、エトルリア文明の発展の時代(orientalizzante 東方化と呼ばれる時代)のもの、アラバスターや凝灰岩やテッラコッタを使った紀元前4〜1世紀の遺灰壷などが並んでいます。

グラナッチ博物館は最初から現在の建物の中にあったわけではなく
1761年 ルッジェーリ宮殿(グラナッチが住んでいた場所)
1785年 プリオーリ宮殿(現市庁舎)
1877年 デズィデーリ・タンガッスィ宮殿
と場所を移してきました。現在の博物館は1500㎡の面積の中に考古学的に重要な作品が時代ごとに展示されています。

ヴォルテッラや付近で発見された墓から見つかった様々な遺品が展示があります。エトルリア時代の遺灰壺が、時代ごとにどのように変化していったのかを見ることができます。

紀元前10〜8世紀 ヴィッラノーヴァ時代
井戸型の古墳で、社会の階層によっての違いはなかったものと考えられます。
遺灰を入れた壺に、逆さまにした小鉢が載せられていました。

紀元前8世紀 東方化(orientalizzante)時代
上流階級用の豪華な墓(tomba a ziro)が見られるようになります。
ziro
石でできた円筒型の容器(ziro)に遺灰と調度一式が入っていました。
ziroはテッラコッタの膨らんだ壺で、もとはオイルの容器です。ziroを使った墓はキウーズィの町などで発見されています。

紀元前7世紀
中流階級の墓が現れます。
また公職にあった役人の墓の調度には「本、巻物、縁取りのついたトーガ、折りたたみ式の椅子、権𠀋」などが入っていました。

紀元前4世紀
遺灰壺の模様には「戦う幻想的な動物」「葬式の様子」「伝説の生物」「装飾的な模様の繰り返すパターン」などが使われます。

紀元前4世紀半ば
壺の蓋に故人など、人間の彫像をつけます(最初は足を伸ばして寝そべった様子→次第に足を組むポーズ)
granacci
箱の部分はあの世(al di là)に向かう旅の様子

紀元前3世紀
遺灰壺にアラバスターが使われるようになります。壺には英雄風の故人や、宴会での故人の姿(盃を持っている)を表します。

紀元前2世紀
故人の服装にチュニカが見られるようになり、エトルリアがローマ化していることがわかります。

紀元前2世紀末
同じタイプの壺が大量生産されていきます(中流階級への安いタイプの壺生産)

紀元前1世紀
リアリスティックな故人の様子を表現するようになります。


次回はエトルリア古墳のタイプを書きます。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。