マティルデ・デ・カノッサが生まれた屋敷

ピサ県
11 /20 2017
ピサ県の小さな町サン・ミニアート
丘の上に作られた町の中で一番高いポイントはフェデリコ2世の塔(13世紀)神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によってまちが城塞化されたシンボルとなる建築物です。

その次に高い場所にあるのが大聖堂広場。
この広場に大聖堂(12世紀)だけではなく、神聖ローマ帝国の代理人が居住した邸宅(12世紀)や、司教館(13世紀)があります。
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この代理人の邸宅(Palazzo dei Vicari imperiali)には、トスカーナ辺境伯が住んでいたことがあります。

神聖ローマ帝国期の有力な領主の一人であったボニファーチオ・ディ・カノッサは、カノッサ伯そしてトスカーナ辺境伯であり、レッジョ、モデナ、マントヴァ、フェラーラを支配しました。
ボニファーチオは常に神聖ローマ皇帝を支持し、1056年にマントヴァ近くで狩りの途中で暗殺されます。
ボニファーチオには3人の子供がありましたが2人は夭折しており、残ったのがマティルデでした。
10歳にも満たない歳でトスカーナ辺境伯になったマティルデは、下ロートリンゲン公と結婚しますが、夫は暗殺され母も亡くなり、一人で所領を治めることになりました。
皇帝を支持した父親と違って法皇派であったマティルデ。グレゴリウス7世がドイツ諸侯会議へ向かう途中にハインリヒ4世の接近を知りカノッサに避難してくると、これを保護し「カノッサの屈辱」事件が起きます。
マティルデは自分の死後に所領を教会に寄進する意思を表明していました。しかし遺領は教皇領、皇帝領に分割され、領域内の各都市はその後自立の方向に向かいます。こうして北イタリアの都市国家(コムーネ)が形成されたのです。

神聖ローマ帝国代理人邸の向こうにはパノラマが広がっています。
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ここにボニファーチオが居住していた時にマティルデが生まれたという伝説があります。

この建物は、現在レストランとして使われています!
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窓から見えるパノラマだけではなく、古い歴史に想いを馳せながらお食事を頂けますね。
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サン・ミニアートの聖なる十字架教会

ピサ県
11 /13 2017
トスカーナ州ピサ県の小さな町サン・ミニアート
大聖堂のすぐ近くに、外見は質素なのですが内部が美しい「聖なる十字架教会 chiesa di Santissimo Crocifisso」があります。城塞や大聖堂や市庁舎がある空間と階段で結ばれています。
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建築は1705〜1718年、アントニオ・マリア・フェッリの設計です。
10世紀から伝わる奇跡を奇跡を起こすとされる聖なる十字架を収めるために建設されました。

平面図はギリシャ十字型(縦横同じ長さの十字)で、交差部分の上にはクーポラがあります。
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内部が全体的にアントン・ドメニコ・バンベリーニによってフレスコ画で装飾されています。
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祭壇画の周りはだまし絵です。両側の柱なんて、本当に浮き出ているように見えますよね。

主祭壇の板絵は「キリスト復活」(フランチェスコ・ランフランキ 1525年)
主祭壇のタベルナーコロには奇跡の十字架が収納されています。
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クーポラを支える柱の中には4人の福音書記者(ルイージ・パンパローニ 19世紀)が設置されています。

聖ヨハネ
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聖ルカ
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聖マタイ
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聖マルコ
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パンパローニの作品はフィレンツェでも大聖堂の横やアカデミア美術館で鑑賞することができます。

工房から変身した神学校

ピサ県
11 /12 2017
ピサ県の小さな町サン・ミニアート
大聖堂の近くにこんな整然としたレプブリカ広場があります。
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サン・ミニアートがルッカから独立し司教区になった17世紀、聖職者の教育を行う神学校の建設が決まりました。
当時この空間は市壁に沿う形で家と工房がひしめき合っていました。

1650年に12人の聖職者の住居がまず建設されます。
次第に1713年まで増築改築を繰り返し、神学校が完成しました。

ファサードは多角で構成されています。これは以前にあった住宅が後ろの市壁に沿って立っていたので、それをなぞったラインになっているからです。
ファサードのフレスコ画は1705年のフチェッキオの芸術家フランチェスコ・キメンティの作品です。
聖書や初期キリスト教の教父の30の格言を伴った美徳の偶像です。

今もファサードの下部には13世紀の工房の跡が残っています。
工房の入り口はT型で、中央扉の左右の壁の上には工房の商品が並べられていたのです。
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アレッツォの広場やフィレンツェのヴェッキオ橋の上にも、同スタイルの工房跡を見つけることができます。

サン・ミニアートの大聖堂

ピサ県
11 /11 2017
ピサ県サン・ミニアートの町の大聖堂は昇天の聖母マリアと聖ジェネーズィオに捧げられています。
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12世紀 古い礼拝堂があった場所に聖母マリアの名前を持つ教会が健堂されます。最初の記録は1195年に遡ります。

1248年 丘の下に広がっていたランゴバルド族の集落が破壊され、そこにあったサン・ジェネーズィオの呼称と洗礼盤を譲り受けます。この時代に教会は修復され、ファサードには陶器の皿が装飾としてはめ込まれますが、この装飾は当時のピサ共和国で流行っていたものです。

1247年 コズマーティ様式の芸術家ジロルド・ダ・アローニョによって浮き彫りの「受胎告知」が製作されます。

1369年 町はフィレンツェの支配下に。教会を含む城塞の区画が再整備され、信者が教会に入れないようになりました。

1489年 政治情勢が落ち着き、ようやく教会は町の信者の手に戻ります。鐘楼などの修復と増築が行われます。

1622年 町がルッカの司教区から独立したときに、司教座聖堂となりました。

1860年 大きな改築が行われます。

1944年 アメリカ軍の銃弾が大聖堂に撃ち込まれ、内部にいた住人55人が死亡します。

>ファサード
26枚のチュニジアの陶器の皿がはめ込まれています(もとは31枚でした)現在は皿はコピーとなっていて、オリジナルは司教区美術館にあります。3枚の扉は16世紀のものです。

>鐘楼
「マティルデの塔」と呼ばれます。横の教皇代理人の館にてトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが生まれたという伝説から来た名前です(現在は否定されています)12世紀の建築。

>内部
19世紀の改築によって大部分が今の姿になったネオルネッサンス様式です。ラテン十字の平面図を持ち、身廊は3つに別れています。
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天井は17世紀の建築ですが、3枚の丸い天井画は19世紀に描かれました。

>彫刻
説教壇はアマリア・デュプレ作。
彼女が父親のジョヴァンニ・デュプレによってプロジェクトされた、いくつかの墓碑も手がけています。これらはサン・ミニアートの市民の中でも著名な人々の墓です。
1274年のジロルド・ダ・コモ作の古い説教壇は大聖堂付属美術館にあります。

洗礼盤は17世紀のサンドリーニ作。また13世紀の洗礼盤は右の袖廊に設置されています。

>絵画
「十字架降下」ロ・スピッロ作(アンドレア・デル・サルトの兄弟)1528年

「東方三博士の礼拝」アウレーリオ・ローミ作
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「ラザロの復活」コジモ・ガンベルッチ作

「イエスの洗礼」オッターヴィオ・ヴァンニ作

礼拝堂のフレスコ画装飾はアントン・ドメニコ・バンベリーニ作
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礼拝堂のフレスコ画には聖人たちの物語が描かれています。
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こちらは町の名前になっている聖ミニアートの物語。断頭されて殉教した聖人が自分の首を持ってすっくと立ちがる奇跡の場面です。
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素朴な外観に比べて内部は新しいエレガントな様子ですね。

サン・ミニアートとナポレオン

ピサ県
11 /10 2017
ピサ県のサン・ミニアートの町の歴史は8世紀に遡ります。
ルッカの大司教資料によればランゴバルド族のグループが丘の上に殉教者ミニアートに捧げた教会を建設したそうです。
その後シュバーベンのフリードリヒ2世が町の中に城塞を作らせ、トスカーナ地方を治める代理人を置きます。
町は伝統的にギベッリーナ(神聖ローマ皇帝派)の立場をとり、中世を通じて「ドイツ人のサン・ミニアート」と呼ばれました。
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1370年にフィレンツェ共和国と平和条約を結んだ後、それまで使用していたピサ共和国のカレンダーではなく、フィレンツェ共和国のカレンダーを使うことになります。
両国のカレンダーは3月25日を1年の始まりとする点は同じですが、ピサのカレンダーはグレゴリス歴より9ヶ月先に年が明け、フィレンツェのカレンダーはグレゴリス歴に3ヶ月遅れて年が明けました。つまりピサとフィレンツェのカレンダーは1年の違いが生じていたわけです。
そしてピサ共和国はギベッリーナ派であり、フィレンツェ共和国はグエルフィ(ローマ法王)派です。
ここでサン・ミニアートは政治的に大きくグエルフィ派に舵取りしているのがわかります。

1622年に司教座聖堂(カッテドラーレ)を受け、それまでルッカの司教区に入っていましたが、独立した司教区となります。

このような歴史を持つサン・ミニアートの町を若きナポレオンが2回にわたって訪問しました。
1回目は貴族の血筋にあることを立証するためでした。サン・ミニアートの貴族にナポレオンの苗字と同じブオナパルテという一族がいたためです。ナポレオンはフランスの士官学校に入るために貴族の身分を必要としていました。
2回目はイタリア遠征の折で、ブオナパルテ家の末裔の人物と面会しています。

1925年にサン・ミニアートはフィレンツェの下を離れピサ県に入っています。今でもフィレンツェ県とピサ県の境目に位置する町です。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。