塔が立ち並んでいたピサ共和国の港

ピサ県
06 /26 2017
イタリア都市国家時代に「海の共和国と呼ばれたのはピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、アマルフィの4つの都市です。
しかし海洋国家であったピサは海には接していませんでした。
正確には海に近い位置ではありましたが、ピサはアルノ川沿いの町だったのです。

海岸線に港を建設し、そちらから運河とアルノ川を遡って船で物資を輸送していました。

港は二つ
①サン・ピエロ・ア・グラード 紀元前3世紀〜
②ポルト・ピサーノ 10世紀〜

②はリヴォルノの北、カランブローネにありましたが、現在は埋まってしまっています。現在の海岸線は当時より3kmほども海の方に移動しています。

ポルト・ピサーノの歴史
1150〜 それまでの港を大きく改築。
1156年 港の5マイルほど南に、メロリアの塔を建設。干潟が多い地域で外敵からの守るのに適していました。
(13世紀にここでピサ海軍はジェノヴァ海軍に大敗を喫します)

この後、岩礁の上に何本もの塔が建設されていきます。
Soarzaの塔
San Vitoの塔

これらの塔は鎖で繋がれ、港への入り口を塞いでいました。船は列をつくって入港するシステムになっていたのです。

1160年 ポルト・ピサーノとピサの町を繋ぐ最初の運河が掘られます(Vottola運河、長さ12マイル)

1162年 ポルト・ピサーノに要塞型の塔(Torrita)が建設されます。井戸を建設し、籠城にも備えていました。また他の運河(スターニョとアルノ川を繋ぐSan Stefano運河)もつくられます。

輸送品はポルト・ピサーノ→運河→チッタ・デッラ・ヴェッキア(税関)→ピサの町の順で運ばれました。

13世紀終わり 港に他の塔が建てられます(Frascettaの塔, Magnaの塔, Fanaleの塔)
塔が立ち並ぶ港の様子
ポルト・ピサーノ3

ジェノヴァ海軍によってメロリアの海戦の時に引きちぎられた鎖はSan Vitoの塔と港を繋いでいたものです。
後にジェノヴァから返還された鎖がカンポサントの中に展示されています。
ポルト・ピサーノ1

1290年の戦いでは、ジェノヴァ海軍は港への入り口に船を沈めたり、塔を破壊して港周辺の海に捨てたため、港は大きな被害を受けます。

1457年 フィレンツェによるピサ支配の時代が始まり、新しいMarzoccoの塔(マルゾッコはフィレンツェ共和国のシンボルのライオン)を建設→1479年には塔は破壊されます。

斜塔の入り口にも港の様子を浮き彫り表した大理石が嵌め込まれています。
ポルト・ピサーノ2
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法王から聖務禁止を食らったピサ共和国

ピサ県
06 /18 2017
有名な斜塔があるピサの大聖堂広場、その南側を閉じるような形で建っているがシノピア美術館です。
ここには同じ広場にあるカンポサントの壁から剥がされたシノピア(フレスコ画の下絵)が展示されています。
シノピア美術館1
この東西に延びる大きな建築はもともと病院でした。その建築には中世のピサの歴史が絡んでいます…

1220年 この頃からトスカーナ地方の自治都市間の戦いが始まります。
1222年 「ボスコロ城の戦い(ピサVS.ルッカ〜フィレンツェ連合軍)」は、トスカーナで起こった最初の都市間の大きな戦争でした。ここでピサは敗退します。

都市国家は、それぞれギベッリーニ派(神聖ローマ皇帝派)とグエルフィ派(教皇派)に組し、戦いを行います。また都市国家内にもギベッリーニ派の有力市民とグエルフィ派の有力市民がいて、内部抗争を起こします。中世を通じてイタリア中部でこのような紛争が繰り返されました。そしてピサ共和国は神聖ローマ帝国に強く結びついていました。

13世紀半ばの神聖ローマ帝国皇帝はフェデリコ2世(フリードリヒ2世)そしてローマ法王はグレゴーリオ9世(グレゴリウス9世)でした。

1240〜1250年 フェデリコ2世はトスカーナ都市を支配下に置き、町の自治を許しませんでした。ピサのポデスタ(執政長官)も皇帝から直接に選ばれました。

1241年 グレゴーリオ9世はフェデリコに対抗するため、ローマで公会議開催を計画します。このことを知ったフェデリコは、ローマへ航海中であった教皇特使を載せた27艘のジェノヴァ船をピサ艦隊に捕らえさせます。
多くの聖職者が殺されたり、捕らえられたので公会議は開催できませんでした。

ローマ法王は激怒し、ピサの町全体にinterdetto(秘跡や聖務への参加を禁じる)を命じました。scomunica(破門)ではないと地方史の先生は説明していました。

1241〜1257年 ピサ共和国は政治的に孤立します。国内ではヴィスコンティ家(ギベッリーニ派)とゲラルデスカ家(グエルフィ派)の抗争が起きます。

1257年 新法王アレッサンドロ4世はピサの町の聖務禁止を解除します。その条件は
◉2度と司教や教皇特使の活動を邪魔しないこと
◉1万リラを使い、新しい病院を建設すること

こうして病院がジョヴァンニ・ディ・シモーネ(カンポサントや斜塔の一部を手がけた建築家)の指揮により建てられたのです。

シノピア美術館となった経緯は
1944年 カンポサントにて爆撃による火事が起きます。
1947年 カンポサントの壁から最初のフレスコ画が剥がされる作業が行われます。
1976〜1979年 フレスコ画の下絵シノピアを展示するために病院を改築。
1979年 シノピア美術館として開館。

参照 comune.pisa.it

エトルリアのライオン

ピサ県
06 /17 2017
ピサの斜塔がある大聖堂広場を囲む市壁の上に、このライオンの像があります。
よくお客様に「あのライオンの像は何ですか?」と聞かれます。
leone etrusco
市壁の上に立っている彫刻はこれ一体だけですので、とても目立つのでしょう。
これは古代民族エトルリアの彫刻であると言われています。

ピサ共和国を守る市壁は1155年に、コッコ・グリッフィの指揮で建設されました。
ローマ帝国時代には町はもっと小さく、やはり城壁が張り巡らされていました。その中に公衆浴場、アンフィテアトロ、港などが存在していましたが、中世にはこれらが廃墟となり、建築物に使われていた石を再利用して作られたのが中世の市壁だったのです。

市壁からは何本もの塔が突き出ていましたが、1406年にフィレンツェがピサを支配するようになり、これらの塔の上部は壊されて市壁と同じ高さにされてしまいます。
町の中の塔型住居も破壊されました。有力市民の権力のシンボルであるこれらの塔は、自治都市が負けると取り壊されてしまうのが当時の習わしだったのです(都市の内部抗争で、町から追放された有力市民の塔型住居も破壊されるのが普通でした)

取り壊された「ライオンの塔」にはアーチがあり、広場への入り口となっていました。
塔の外部の壁龕に、このエトルリアのライオンの像が設置されていたので「ライオンの塔」と呼ばれていたのです。
今は閉ざされてしまったアーチの跡も見ることができます。
porta del leone

斜塔広場の牝狼像はムッソリーニ訪問記念

ピサ県
06 /16 2017
ピサの斜塔の北側に、古代ローマのシンボルである牝狼が設置されています。
lupa

これは時代によって姿を変えてきたピサ大聖堂広場にとって、最後に設置されたものでした。この牝狼によって、広場は今の姿になったのです。
時代順に広場の変化の様子を見てみましょう。

1064年 大聖堂着工。海洋国ピサのロマネスク様式の頂点となる建築です。当時のピサ人はアラブの国と交易を行い、その文化様式の美しさに衝撃を受けたと言われます。

町を守る市壁の拡張工事が行われます。大聖堂着工当時は、大聖堂が壁外に位置していたのです。

1152年 洗礼堂着工

1172年 鐘楼(ピサの斜塔)着工

1277年 カンポサント着工

15世紀 フィレンツェによるピサ共和国支配。それまでは広場にはレオーネ門から入る形でしたが、この門はフィレンツェ人によって閉ざされ、サンタマリア門が築かれます。

メディチ家からロレーナ家の支配の時代、4つのモニュメントの周りには多くの建築物が建設されました。

19世紀 建築家アレッサンドロ・ゲラルデスカによって、メディチ〜ロレーヌ時代の建築は取り壊され、広場は中世の姿を取り戻します。

20世紀 ファシズムの時代。ムッソリーニがピサを訪問した記念に、古代ローマのシンボル牝狼の像を円柱に載せたモニュメントを設置。周囲には植えられた17本の糸杉は戦争で命を落とした兵士に捧げられたものでした。

1987年 ユネスコの世界遺産に登録

2003年 偶然に10世紀の大聖堂の遺跡が発見されます。現在の大きな大聖堂を作るために完成されなかったと考えられています。また古代ローマ時代の遺跡や住居跡、そして洗礼堂の周囲から7世紀のランゴバルド族の墓も発見されました。

この発掘の時に考古学者の人が「広場の地質は非常に高い酸性」だと言っていました。

タラントの壺

ピサ県
06 /15 2017
ピサ大聖堂の裏側、斜塔の写真を間近に撮りやすい場所に、とても邪魔な壺があります。
タラントの壺
円柱の上にあるのは古代ローマ風の壺。
昔は古代ローマ帝国の力のシンボルとして、もっと大きなモニュメントだったそうです。
伝説によれば、酒神バッカスのモチーフが彫られた壺は、ローマ皇帝がピサに贈ったもの。納付金を計るためのタラント(古代ヘブライ、古代ギリシアの貨幣単位、または古代の重量単位)の壺だというのです。

1320年にルーポ・ディ・フランチェスコ(ジョヴァンニ・ピサーノの弟子)によって、赤い斑岩の円柱の上にアッティカ風のベースを設置し、壺を組み合わせるモニュメントが作られました。
円柱の上部はコンポジット式(イオニア式とコリント式を混合した様式)で、アバクス(円柱頭部につく板)には壺の歴史を語る碑文が刻まれていたそうです。
アバクスの上にはさらに大理石のライオンが設置され、その背中に小さな円柱、最上部にタラントの壺があったのです。

1595年の大聖堂の火事(この時に大聖堂の天井も焼けています)にて、モニュメントは解体され、シンプルなヴァージョンに置き換えられました。
現在、赤い斑岩の円柱はカンポサントの中に置かれ、ライオンは洗礼堂の書見台のベースに使われています。
大聖堂外部にはタラントの壺のコピーが設置され、オリジナルは大聖堂財産管理委員会の倉庫にあるそうです。

ちなみにタラントはイタリア語ではtalento、「その能力に応じてタレントをもらう」ということから、英語のtalent(才能、能力)の語源となっているそうです。

参照 oscana, Touring Club Italiano, Milano 1999

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。