中世の大学

ちょっとかじる歴史の話
04 /19 2018
中世の大学は12世紀初めに形成され、13世紀にかけて数が増えて行きました。
ただしヨーロッパ最古の大学とされるボローニャ大学は11世紀(1088年)創立です。
教会や修道院の学校、つまり神学校から授かった教育方法のモデルの発展した形です。
その開花は12世紀ルネッサンスの動きに伴った、著しい文化的・社会的現象でした。

【12世紀ルネッサンス】
ルネッサンス(再生)とは、14世紀頃イタリアでルネサンスの文化運動が始まり、やがて周辺国に影響を及ぼしたことを指します。それ以前の中世は暗黒時代とされました。
「12世紀ルネッサンス」ではヨーロッパ中世の12世紀にも、古典文化の復興と、文化の高揚が見られると考えます。古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、哲学・美術・文学などの分野で新しい動きがみられます。こうして中世とルネッサンスは断絶しているのではなく、連続していると強調する考え方です。

修道院の本拠地や司教のお膝元で学校が創立され入学希望者が増えます。ボローニャやパリでは生徒と教授が学問所創立のために手を組み「università」と呼ばれるようになりました。

【università】
ラテン語の「universitas」由来。共同体、組合、連合の意味

13世紀にヨーロッパで名門とされた大学は
サレルノ、パドヴァ→医学
ボローニャ→法学
パリ、オックスフォード→神学と哲学

オックスフォードの法学部だけは民法と教会法の両方の学科がありました。
これらの大学がそれまでの教会の学校と違っていたのは、教授が生徒の力を借りて自由にプログラムを作ることが出来、実用的なテキストを自分たちで作っていたことです。

14世紀にはヨーロッパに少なくとも20の大学が存在し
イタリア 10(ボローニャ、パルマ、モデナ、ヴィチェンツァ、アレッツォ、パドヴァ、ナポリ、ヴェルチェッリ、シエナ、ローマ)
フランス 5(パリ、モンペリエ、トゥールーズ、オルレアン、アンジェ)
イギリス 2(オックスフォード、ケンブリッジ)
スペイン 2(サラマンカ、バリャドリッド)
ポルトガル 1(リスボン)

ちなみに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では425年にテオドシウス2世がコスタンティノープル大学を開設し、15世紀まで運営されていました。同時代にアンティオキア、アレクサンドリアでも類似教育機関が存在していました。


ところで哲学科は中世の時代にはLa Facoltà delle Artiと呼ばれていました。arteというとアート?美術?と思ってしまいます。
他の学科(医学、神学、法学)に比べると哲学科は下の位に考えられていましたが、学生の数は最も多かったのです。なぜならまず哲学を学んでから他の学部に進むことが出来たからなんですね。今でいう一般共通科目ということでしょうか?
哲学を卒業するとbaccelliere(13世紀以後の大学の学士号の1つで、「laurea大学卒業資格」前段階の資格取得者)と考えられ、Magister artiumと呼ばれました。そして医学ぶなどを卒業するとdottoreと呼ばれたのです。

なぜ哲学部をarteと呼んだかというと、sette Arti liberali(7つの自由学芸)からきているのです。

【自由学芸 リベラル・アーツ】
古代ローマにおいて、技術は「機械的技術 artes mechanicae」と、「自由の諸技術 artes liberales)とに区別されていました。
この言葉の使用は古代ギリシアにまでさかのぼり、プラトンが哲学的問答を学ぶための準備として、算術、幾何学、天文学が必要と説きました。これらは自由な意思に基づいて勉学される「数学的諸学科の自由な学習」と考えられました。
そしてローマ時代の末期に、7つの科目からなる「自由七科」として正式に定義されます。
自由七科
言語にかかわる3科目の「三学」(トリウィウム、trivium)文法・修辞学・弁証法(論理学)
数学に関わる4科目の「四科」(クワードリウィウム、quadrivium)算術・幾何・天文・音楽

フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会「スペイン人の礼拝堂」に書かれた「7つの自由学芸」
自由学芸1

哲学はこの自由七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられていました。
Herrad von Landsbergの百科事典より、哲学を中心にした自由七科
自由学芸2

また哲学は神学の予備学として、論理的思考を教えるものとされます。

参照 Università nel Medioevo
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ワイン樽の歴史

ちょっとかじる歴史の話
08 /11 2017
お客様からいただいたこの質問
「昔はワインも壺に入れて保存していたんですよね?樽を使うようになったのはいつからでしょう?」
調べてみました( ̄^ ̄)ゞ

古代に、ワインは石やテッラコッタでできた桶で作り、アンフォラに入れて運んでいました。
アンフォラは紀元前15世紀ごろレバノン〜シリアあたりから広まり、7世紀まで地中海地方で使用されていました。
アンフォラは尖った底をもち、柔らかい地面に縦に突き立てて安定させていました。また船で輸送するときには、船倉に砂を引きそこに横たえていました。しかし陸の運搬にはあまり向いていなかったそうです。

木の樽はケルト人の発明です。最初は運搬用で、サイズも比較的小さいものでした。
鉄の「たが」のおかげで次第に大きなサイズの樽が作られるようになり、ワインの製造と保管に使われます。

キャンティクラッシコ用の樽
キャンティ樽
3世紀、ガリア人(ケルト人の中でガリア地域に居住)と古代ローマが接触し、ローマ人も木の樽を使うようになります。

ヨーロッパにて木の樽で生産したワインが優れているとされるようになったのは19世紀からです。
それまではワインの質に大きな影響を与えるとは考えられていなかったので、樹木の種類もまちまちでした。
ガラスの容器に入れて保存したワインと違うぞとわかり、また樽の大きさもワインの質に関係することが意識されるようになります。

現在はbarrique(225〜228リットル)が世界でもっとも普及している樽で、一方、大きなサイズの樽(もっとも普及しているのは20〜50ヘクトリットル)はイタリアの伝統として残っています。
barriqueが並んでいる様子
バッリク
樽用に使われる木材はフランスの森の樫が有名ですが、イタリアの大きな樽にはスロヴェニアの樫が普及しています。

参照 la storia delle botti in legno per il vino

パッツィ家のイルカ

ちょっとかじる歴史の話
06 /07 2017
メディチのライバルであったパッツィ家。
イタリア人の苗字には「なんでこんな苗字が付いているんだろう?」と思うものがいくつもありますが、パッツィ(pazziは錯乱、狂気という意味)もその一つです。

メディチ家の当主ロレンツォと弟のジュリアーノの殺害を企てた「パッツィ家の陰謀」から、このような苗字で呼ばれるようになったイメージがありますが、暗殺事件前からパッツィはパッツィでした。
その語源はもっと古いものです。
ラテン語の「patiens 忍耐強い」から由来する説、同じくラテン語の「pax 平和」からという説、ギリシャ語の「pathos 情念」から来ている説もあります。
苗字の前にdeやdi(いずれも「何々の」という所属を表す)などを先行させるのは、ランゴバルド族の家父長制の遺産で、一族が重要とされていた印です。

ラニエリ・デ・パッツィがフィエーゾレからフィレンツェに移り住んだパッツィ家の先祖とされ、11世紀の頃の人物です。
パッツィ家の古い家紋は三日月をモチーフとしていて、これはフィエーゾレの町の紋章に似ています。

伝説的な人物パッツィーノ・デ・パッツィは、第一回十字軍に参加、エルサレムの城壁の上に最初のキリスト教の旗を立て、サントセポルクロの岩のかけらを3つ入手したとされます、今もこの石は、復活祭のスコッピオ・デル・カッロの花火に火をつける火打ち石として使用されています。

パッツィ家は金融と貿易で豊かになり、政治的にはグエルフィ派でした。
(ヴァルダルノには同じ名前のパッツィ家がありましたが、こちらはギベッリーニ派でフィレンツェのパッツィ家と親戚関係を持つことはありませんでした)

しかしフィレンツェ人が果たして第一回十字軍に参加することがあったのか学者から疑問も提示されています。
パッツィ家の新しい家紋にある「イルカ」は、パッツィ家の人間が十字軍に参加し海を渡ったことの名誉を表すと言われますが、実際にはこの家紋はもっと後の14世紀に神聖ローマ帝国のバル公から頂いたものだそうです。

パッツィ家の家紋
パッツィ家の紋章

バル家の家紋
バル家の紋章

バル公の紋章もパッツィ家と同じく「2匹のイルカ」なんですね。
背景の色や十字架の形までそっくりです。

参照 Antiche famiglie toscane: i Pazzi
   

ミケランジェロの師匠はギルランダイオ(花輪職人)?

ちょっとかじる歴史の話
06 /01 2017
フェスタ(祝祭)の時に使われていたフェストーネというデコレーションについて、前回の日記に書きました。
伊語辞書を見るとフェストーネは「花綱」そしてギルランダは「花輪」と出てきます。

「ヨーロッパの装飾と文様」(海野弘著)には「フェストゥーンは祝祭の花飾り全体を、ガーランドは個々の花飾りを意味するようだ」と書かれています。

イタリアのWikipedia にはギルランダは「祝祭時の花の飾り」

う〜ん、二つの違いはどうやら曖昧のようです…

ところでルネッサンス時代のフィレンツェの画家にドメニコ・ギルランダイオという人物がいます。
大きな工房を経営していた人気の芸術家で、その下で一時期はミケランジェロも修行していたとか。
この苗字「ギルランダイオ」から、ドメニコは花輪職人の家に生まれたというイメージをずっと持っていたのですが…

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 トルナブオーニ礼拝堂
こちらに視線を向けているのがドメニコ(自画像)です。
ギルランダイオ
ドメニコは貴金属細工師トンマーゾ・ディ・コッラーディの5人の息子の長男に生まれました。
トンマーゾはアリエント通りに工房を持つ職人でした。
同業の職人が集まっている場所だったので、アルジェント(銀)通りから、アリエント通りという現在の名前がきているそうです。
ジョルジョ・ヴァザーリの証言では、トンマーゾは若いフィレンツェの貴婦人の頭に飾る銀製のギルランダを彫金して、名声を博した職人だったというのです。
しかしヴァザーリの本は見聞したことを書いているので、時には(しばしば?)間違いもあります。
実際にはトンマーゾの工房は、メダルや羽毛を使った輪状の飾りを安価に製作することを専門にしたそうです。

ということは、花を使っていなくても、輪状の飾りをギルランダと呼んでいたのかもしれませんね。

キリスト教はイタリアの国教なのか?

ちょっとかじる歴史の話
05 /17 2017
イタリアの公共の学校で教室に十字架が飾られているのが、論争の的になったことがありました。
キリスト教の生徒が100%ならまだしも、今や様々な宗教が共存する社会。
これは不公平ではないか?ということなんですね。
「いや、キリスト教はイタリアの国教だし」という言葉を聞いて、はてそんな法律とかあったかな?と疑問だったので調べてみました。

※ イタリアの歴史と文化にキリスト教のもたらした影響が大きいことはもちろん周知の事実ですし、そこに反論を挟む余地はないかと思います。あくまでもそのような条文があるのか?という視点です。
また前回の日記にて、イタリア在住の71.4%がキリスト教徒、そのうち66.7%がカトリック、そしてカトリックのうちpraticanti (定期的に宗教活動に参加する人)は24,4%というデータを書きました。熱心な宗教活動はしない人も含め、キリスト教徒が人口の70%ほどを占めるという事もあきらかです。

国教の定義…「国家が保護し活動を支援する宗教のこと」
そしてカトリックを国教としているのは… バチカン、アルゼンチン、コスタリカ、マルタ、スペイン、フィリピン
イタリアは入っていないんですね。

イタリアという国家ができたのは1861年。そこから教皇庁とどのような経緯があったのでしょうか?

1861年 第1回イタリア国民議会にて、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア国王と承認され、投票により王国首都はローマとされました。ローマには教皇領が存在していたのですが…

イタリア王国は教皇に対して
「ローマ市街をイタリア王国へ明け渡すこと。バチカンとラテラノ宮殿の占有を認めるが、その代わりに年32万5千リラを支払うこと」を求めます。

1870年 普仏戦争勃発により、ローマを守っていたフランス軍が撤退。イタリア王国が教皇領を占領。
1871年 イタリアの首都をフィレンツェからローマへ遷都。しかし教皇は上記の条件を拒否し、イタリア王国と対立。

1929年 ローマ教皇庁がムッソリーニ政権下のイタリア王国とラテラーノ条約を締結。
→バチカン市国が建国される。ムッソリーニの狙いは、教会との緊張状態を解決して自らの国際的地位を高めることでした。

(1861〜1929年のイタリア王国とローマ教皇庁の緊張状態を「ローマ問題」と呼びます)

ラテラーノ条約では、イタリア政府が「カトリックがイタリアの宗教において特別な地位を有すること」を約束したので、この時点ではカトリックがイタリアの国教だったと言えます。これをコンコルダート(政教条約)と呼びます。

1984年 ラテラーノ条約の改定。カトリック教会が国家に承認された特別な宗教であるという旨の部分が削除されました。

こうして1985年からカトリックはイタリアの国教ではなくなっているわけです。

しかし国営放送RAIのニュースでは、法王の謁見の儀やコメントを流しますし、イタリアの祝日の多くがキリスト教関連のお休み。国教ではないにしても、イタリアとキリスト教が今も深く結びついているのは確かですね。

参照
Patti Lateranensi
Servizio per i rapporti con le confessioni religiose e per le relazioni istituzionali

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住25年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。