キリスト教はイタリアの国教なのか?

ちょっとかじる歴史の話
05 /17 2017
イタリアの公共の学校で教室に十字架が飾られているのが、論争の的になったことがありました。
キリスト教の生徒が100%ならまだしも、今や様々な宗教が共存する社会。
これは不公平ではないか?ということなんですね。
「いや、キリスト教はイタリアの国教だし」という言葉を聞いて、はてそんな法律とかあったかな?と疑問だったので調べてみました。

※ イタリアの歴史と文化にキリスト教のもたらした影響が大きいことはもちろん周知の事実ですし、そこに反論を挟む余地はないかと思います。あくまでもそのような条文があるのか?という視点です。
また前回の日記にて、イタリア在住の71.4%がキリスト教徒、そのうち66.7%がカトリック、そしてカトリックのうちpraticanti (定期的に宗教活動に参加する人)は24,4%というデータを書きました。熱心な宗教活動はしない人も含め、キリスト教徒が人口の70%ほどを占めるという事もあきらかです。

国教の定義…「国家が保護し活動を支援する宗教のこと」
そしてカトリックを国教としているのは… バチカン、アルゼンチン、コスタリカ、マルタ、スペイン、フィリピン
イタリアは入っていないんですね。

イタリアという国家ができたのは1861年。そこから教皇庁とどのような経緯があったのでしょうか?

1861年 第1回イタリア国民議会にて、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア国王と承認され、投票により王国首都はローマとされました。ローマには教皇領が存在していたのですが…

イタリア王国は教皇に対して
「ローマ市街をイタリア王国へ明け渡すこと。バチカンとラテラノ宮殿の占有を認めるが、その代わりに年32万5千リラを支払うこと」を求めます。

1870年 普仏戦争勃発により、ローマを守っていたフランス軍が撤退。イタリア王国が教皇領を占領。
1871年 イタリアの首都をフィレンツェからローマへ遷都。しかし教皇は上記の条件を拒否し、イタリア王国と対立。

1929年 ローマ教皇庁がムッソリーニ政権下のイタリア王国とラテラーノ条約を締結。
→バチカン市国が建国される。ムッソリーニの狙いは、教会との緊張状態を解決して自らの国際的地位を高めることでした。

(1861〜1929年のイタリア王国とローマ教皇庁の緊張状態を「ローマ問題」と呼びます)

ラテラーノ条約では、イタリア政府が「カトリックがイタリアの宗教において特別な地位を有すること」を約束したので、この時点ではカトリックがイタリアの国教だったと言えます。これをコンコルダート(政教条約)と呼びます。

1984年 ラテラーノ条約の改定。カトリック教会が国家に承認された特別な宗教であるという旨の部分が削除されました。

こうして1985年からカトリックはイタリアの国教ではなくなっているわけです。

しかし国営放送RAIのニュースでは、法王の謁見の儀やコメントを流しますし、イタリアの祝日の多くがキリスト教関連のお休み。国教ではないにしても、イタリアとキリスト教が今も深く結びついているのは確かですね。

参照
Patti Lateranensi
Servizio per i rapporti con le confessioni religiose e per le relazioni istituzionali
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エトルリア語

ちょっとかじる歴史の話
05 /09 2017
古代ローマよりも古い時代に中部イタリアに栄えたエトルリア文明。
今日はその言語について、ピサガイド学校に通っていた時のメモをまとめます。

◉エトルリア語の文字はギリシア文字によく似ている。ギリシャ語は紀元前8世紀にはラツィオ地方に伝わっていた。
◉表音文字で読み方はわかっているが、単語の意味が不明なものが多い。
◉ほとんどの資料が碑文に書かれた文字。例外的に布地(麻)に書かれた文字、蝋を塗った板に棒で記した文字、ブロンズの薄板に書かれた文字、儀式に使ったと思われる瓦に書かれた文字などがある。
◉エトルリア語の母音はア、エ、イ、ウでオがない。
◉大文字はなく小文字だけ。
◉文章は普通は右から左へ書いていた(sinistrorso)しかし左から右に書くことも(destrorso)もあり、また各行交互に向きの変わる書き方(bustrofedico)も使用していた。
※bustrofedicoは、牛(bue)の耕作 (aratura)という意味で、古代ギリシャ語のboustrophēdónから来ています。日本語でも牛耕式(ぎゅうこうしき)とか犁耕体(りこうたい)と呼びます。

◉名前の書き方は、現代イタリア語になぞらえてみると
Marco(名) Rossi(氏族) Biondo(苗字で体の特徴を表すことに由来) Giovanni(父の名) Maria(母の名)
という順番で記していました。

エトルリアの墓〜2〜

ちょっとかじる歴史の話
05 /08 2017
古代ローマよりも古い時代に中部イタリアに栄えたエトルリア文明。次第にローマ支配に吸収されながらも、その文化はローマ帝国に多くの影響を与えたと言われます。その古墳が時代によってどのように変化してきたのか見ていく第2弾です。

Tombe a tholos トロス型 orientalizzante時代の終わり(紀元前6世紀)
ギリシャのミケーネの建築に由来するのがトロス型です。
古代のクーポラ建設の最初の例の一つとされます。丘に接して建設され、円形のホールの中央には角柱がありました。
エトルリア人の貴族の棺は大きな円形の空間の横にある小さな部屋に設置されました。
エトルリア北部で使用されたタイプでは、トロスは四角い平面図を持ち、ポプロニアやヴェトゥロニアなどでプロトタイプが発見されています。
トロスはファミリーや部落が何世代にも渡って使用する古墳でした。

フィレンツェ郊外のセストフィオレンティーノにある「モンタニョーラの墓」
エトルリア墓4

Tombe a edicola 小神殿型 紀元前6〜5世紀
エトルリア墓5
開かれた空間に建設される、部屋が一つだけの古墳で、非常に珍しいタイプです。小神殿の形は、エトルリア人にとっては生命が終わり死に向かう旅の途中のポイントであることを示しています。

Tombe a dado o a cubo サイコロあるいはキューブ型 紀元前6〜2世紀
エトルリア墓6
岩壁の凝灰岩をくり抜いて作られる古墳です。
四方を岩で囲まれた空間となるためにキューブ型と呼ばれます。一辺には本物のドアか偽物のドアが作られます。死への通過を暗示するためです。
埋葬の空間はサイコロ型古墳のファサードの下にあり、廊下dromosによって入れるようになっていました。

Tombe a colombario 納骨堂型 紀元前3世紀〜
いくつかの部屋がつながる形をしてました。壁には20 – 30 cmの空間が掘られ、そこに遺灰壺や容器を置くようになっていました。これは階級の低い人々の古墳でエトルリアの末期からローマ帝国時代まで使われていきます。

Tombe a pozzo 井戸型 紀元前2〜1世紀
紀元前10〜9世紀に使われた「井戸型」に比べるとかなり深く、10mにも及んだことから本当の井戸のように見えました。井戸の底に埋葬部屋が作られ、そこまでは壁に掘った切り込みを階段がわりにしたり、井戸の壁に階段を掘ったりしました。

ちなみにオルヴィエートの町で「アンダーグラウンドツアー」という岩盤を掘った空間の見学に参加した時に、エトルリア人の井戸を見ました。やはり井戸の壁に上下に並んだ穴がたくさん掘られていて、そこを足場にして穴掘り人が井戸を作ったんだよと説明されました。
→「エトルリア人の井戸

エトルリアの古墳の型を時代ごとに追ってきました。
ちなみにフィレンツェの考古学博物館の庭には各地で見つかったエトルリア古墳が移築されているので、様々なタイプの古墳を一緒に見ることができますよ。

参照 tombe etrusche

エトルリアの墓〜1〜

ちょっとかじる歴史の話
05 /07 2017
古代ローマよりもさらに古い時代、イタリア半島中部に栄えたエトルリア文明。
今日はその古墳の時代ごとの変化をまとめました。

エトルリア人はあの世でも現世の生活が続いていくと考えていたので、墓は新しい「家」のようなものでした。
そこで墓の中には服やアクセサリーや日用品などを、食品や飲料と共に用意したのです。
墓の装飾は故人や子孫の階級や経済的豊かさによって違いがあり、さらに地域差や時代によって変化の様子が見られます。
要するにバリエーションに富んだ墓のパターンがあったわけです。
裕福な墓の場合は、壁にフレスコ画で日々の生活や一生の中で意味のある重要な場面を描かせたりしました。

執政官道路の端に墓を建てていった古代ローマ人と違って、エトルリア人は古墳を地下に作るか、地上の墓地であっても土まんじゅうを上に乗せて隠していました。
また場所は普通は町の外のネクロポリスにありました。

Tombe a pozzetto 井戸型 紀元前10〜9世紀
土か岩の中に掘られた井戸の形をしていました。形は円筒形か立方体。深さは墓によって違いますが2mほどの深さのものも見つかっています。遺灰はテッラコッタのUrna biconicaと呼ばれる壺の中に入れてありました。
Urna biconica→葬式用に使われた壺で輪型の取っ手が一つだけついています。もう一つの取っ手は葬式中の儀式で壊されます。表面には幾何学模様によって装飾されているものがあります。蓋には小鉢(女性用)か兜(男性用)が使われていました。
参照 urna biconica

Tombe a tumulo 塚型 紀元前8〜6世紀
平べったい石によって建設された、ドラム型の空間をした墓です。円型に石を積み上げ、上部にいくに従って輪が小さくなる構成でpseudocupola(見せかけのクーポラ)を作ります。石自体の重さによって支えられる構造です。
クーポラは土によって覆われ、その周辺にはクーポラを囲うように石を設置していきます。
古墳の中には遺灰が入った壺を設置するための小さな部屋があります。四角い部屋には廊下(dromos)から入ります。普通はこの廊下は東西に延びるように建設されました。ドロモスは墓の調度品が収められている副次的な部屋にも通じていました。

この墓のバリエーションとして、ドラム型空間から入口の空間(ad avancorpo)が突き出た様式もあります。
エトルリア墓3

Tombe a fossa 掘り型 紀元前8〜5世紀
長方形の場合は土葬用の古墳で、正方形の場合は火葬用の古墳です。
8世紀の頃に井戸型の代わりに火葬した故人の墓として使われ始めました。
岩がなく長方形の空間が作れない場合は、様々な小石や石の板や瓦を使って建築しました。掘の内部にも外部にも葬式用の調度や儀式用道具を設置していきました。

Tombe a cassone 長持ち型 紀元前7〜5世紀
凝灰岩によってできた箱状の墓。とても重たく、蓋は2枚の薄板で構成されるか「ロバの背中 schiena d'asino」と呼ばれる凸状の構造をしていました。
エトルリア墓

Tombe ipogee o a camera 地下あるいは部屋型 紀元前7〜4世紀
エトルリア墓2
大部分が地下に位置する(あるいは半地下)古墳。また岩の中をくりぬいたり、自然の洞窟を利用することもありました。
また断崖の淵を掘って作られたものはtombe rupestri(断崖の墓)と呼ばれます。

古墳には傾斜を持った細い廊下(dromos)から入ります。形はバリエーションがあり、長方形から奥がアーチ型となった長方形、台形、正方形、T字型まで。壁はフレスコ画で、天井は浮き彫りなどで装飾されます。また部屋の中に柱頭を持った円柱が立っているものもあります。

このタイプは紀元前8世紀の終わりからエトルリアのローマ化の時代まで、エトルリア貴族階級の典型的な古墳として使われていました。
紀元前7世紀、このタイプの墓の構造は複雑になり、完全に住居のモジュールを持つようになります。
紀元前5世紀の東方化(orientalizzante)の時代には大きな古墳となり、貴族階級の重要さを示し、墓の調度品も高価なものになっていきます。
このような古墳には夫婦や子供達といった一族の遺灰が一緒に設置されていました。

次回に続きます!

参照 tombe etrusche

イタリアの原子力発電 スリーマイル〜チェルノブイリ〜国民投票1987

ちょっとかじる歴史の話
04 /28 2017
今日は、ちょっと趣向を変えてイタリアの原子力発電所について書きます。

イタリアにおける原子力発電は1963〜1990年の間に行われていましたが、発電所の寿命年数に達し閉鎖されました。停止決定には1987年の国民投票の結果が大きく影響しています。

その後、2005〜2008年の頃に原子力発電の再導入が図られましたが、2011年の国民投票により再び否決されました。


イタリアにおける原子力発電は60年代に遡ります。1966年にはイタリアは世界で、アメリカ合衆国とイギリスについで第3位の原子力発電量を持っていました。

原発は以下の4箇所にあります。
ラティーナ(ラツィオ州)58年着工 63年運転開始 87年運転停止
ガリリアーノ(カンパーニャ州)59年着工 63年運転開始 82年運転停止
エンリコ・フェルミ(ピエモンテ州)61年着工 64年運転開始 90年運転停止
カオルゾ(エミリア・ロマーニャ州)70年着工 77年運転開始 90年運転停止

60年代に運転を開始した3箇所はそれぞれ、マグノックス炉、沸騰水型原子炉、加圧水型原子炉とタイプの違うものでした。
最初の原子力発電所はラティーナのものとなりますが、当時のヨーロッパレヴェルでは最も発電量が大きかった(153MW)そうです。
3つの原発の発電総量は、国の需要の3〜4%を賄うほどでした。

そして1970年に4番目の発電所カオルゾの建設が開始されます。

1975年の「国家エネルギー政策  Piano Energetico Nazionale (PEN)」によれば、原子力発電量を増やす方向性が示されています。
この時点で稼動中の3箇所+建設中のカオルゾに加えて、さらに新しい原発を建設する計画がありました。
予定地はモンタルト・ディ・カストロ(ラツィオ州)トリーノ(ピエモンテ州 大都市TorinoではなくTrino)でした。

しかし1979年のスリーマイル島の事故(原子炉冷却材喪失事故、国際原子力事象評価尺度においてレベル5の過酷事故)により、原発の安全性が論議されるようになります。

1982年 ガリリアーノ原発において故障発生、運転停止となります。
1986年 チェルノブイリ原発事故
1987年 イタリア国民投票 5つのテーマに関して国民の意思が問われます。

国民投票の要望を出したのはラディカル党、イタリア自由党、イタリア社会党
投票率 65,11%

テーマの一つが「原子力発電所の位置の決定」に関する質問
「地方自治体が原子力発電所建設を許可しない場合、国は作業を停止すること」
賛成  80,57%
反対  19,43%

この国民投票では、稼動していた原発まで運転停止を求める内容ではなかったことがわかります。

次回に続きます!

参照
Energia nucleare in Italia
Referendum abrogativi del 1987 in Italia

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。