ワイン樽の歴史

ちょっとかじる歴史の話
08 /11 2017
お客様からいただいたこの質問
「昔はワインも壺に入れて保存していたんですよね?樽を使うようになったのはいつからでしょう?」
調べてみました( ̄^ ̄)ゞ

古代に、ワインは石やテッラコッタでできた桶で作り、アンフォラに入れて運んでいました。
アンフォラは紀元前15世紀ごろレバノン〜シリアあたりから広まり、7世紀まで地中海地方で使用されていました。
アンフォラは尖った底をもち、柔らかい地面に縦に突き立てて安定させていました。また船で輸送するときには、船倉に砂を引きそこに横たえていました。しかし陸の運搬にはあまり向いていなかったそうです。

木の樽はケルト人の発明です。最初は運搬用で、サイズも比較的小さいものでした。
鉄の「たが」のおかげで次第に大きなサイズの樽が作られるようになり、ワインの製造と保管に使われます。

キャンティクラッシコ用の樽
キャンティ樽
3世紀、ガリア人(ケルト人の中でガリア地域に居住)と古代ローマが接触し、ローマ人も木の樽を使うようになります。

ヨーロッパにて木の樽で生産したワインが優れているとされるようになったのは19世紀からです。
それまではワインの質に大きな影響を与えるとは考えられていなかったので、樹木の種類もまちまちでした。
ガラスの容器に入れて保存したワインと違うぞとわかり、また樽の大きさもワインの質に関係することが意識されるようになります。

現在はbarrique(225〜228リットル)が世界でもっとも普及している樽で、一方、大きなサイズの樽(もっとも普及しているのは20〜50ヘクトリットル)はイタリアの伝統として残っています。
barriqueが並んでいる様子
バッリク
樽用に使われる木材はフランスの森の樫が有名ですが、イタリアの大きな樽にはスロヴェニアの樫が普及しています。

参照 la storia delle botti in legno per il vino
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パッツィ家のイルカ

ちょっとかじる歴史の話
06 /07 2017
メディチのライバルであったパッツィ家。
イタリア人の苗字には「なんでこんな苗字が付いているんだろう?」と思うものがいくつもありますが、パッツィ(pazziは錯乱、狂気という意味)もその一つです。

メディチ家の当主ロレンツォと弟のジュリアーノの殺害を企てた「パッツィ家の陰謀」から、このような苗字で呼ばれるようになったイメージがありますが、暗殺事件前からパッツィはパッツィでした。
その語源はもっと古いものです。
ラテン語の「patiens 忍耐強い」から由来する説、同じくラテン語の「pax 平和」からという説、ギリシャ語の「pathos 情念」から来ている説もあります。
苗字の前にdeやdi(いずれも「何々の」という所属を表す)などを先行させるのは、ランゴバルド族の家父長制の遺産で、一族が重要とされていた印です。

ラニエリ・デ・パッツィがフィエーゾレからフィレンツェに移り住んだパッツィ家の先祖とされ、11世紀の頃の人物です。
パッツィ家の古い家紋は三日月をモチーフとしていて、これはフィエーゾレの町の紋章に似ています。

伝説的な人物パッツィーノ・デ・パッツィは、第一回十字軍に参加、エルサレムの城壁の上に最初のキリスト教の旗を立て、サントセポルクロの岩のかけらを3つ入手したとされます、今もこの石は、復活祭のスコッピオ・デル・カッロの花火に火をつける火打ち石として使用されています。

パッツィ家は金融と貿易で豊かになり、政治的にはグエルフィ派でした。
(ヴァルダルノには同じ名前のパッツィ家がありましたが、こちらはギベッリーニ派でフィレンツェのパッツィ家と親戚関係を持つことはありませんでした)

しかしフィレンツェ人が果たして第一回十字軍に参加することがあったのか学者から疑問も提示されています。
パッツィ家の新しい家紋にある「イルカ」は、パッツィ家の人間が十字軍に参加し海を渡ったことの名誉を表すと言われますが、実際にはこの家紋はもっと後の14世紀に神聖ローマ帝国のバル公から頂いたものだそうです。

パッツィ家の家紋
パッツィ家の紋章

バル家の家紋
バル家の紋章

バル公の紋章もパッツィ家と同じく「2匹のイルカ」なんですね。
背景の色や十字架の形までそっくりです。

参照 Antiche famiglie toscane: i Pazzi
   

ミケランジェロの師匠はギルランダイオ(花輪職人)?

ちょっとかじる歴史の話
06 /01 2017
フェスタ(祝祭)の時に使われていたフェストーネというデコレーションについて、前回の日記に書きました。
伊語辞書を見るとフェストーネは「花綱」そしてギルランダは「花輪」と出てきます。

「ヨーロッパの装飾と文様」(海野弘著)には「フェストゥーンは祝祭の花飾り全体を、ガーランドは個々の花飾りを意味するようだ」と書かれています。

イタリアのWikipedia にはギルランダは「祝祭時の花の飾り」

う〜ん、二つの違いはどうやら曖昧のようです…

ところでルネッサンス時代のフィレンツェの画家にドメニコ・ギルランダイオという人物がいます。
大きな工房を経営していた人気の芸術家で、その下で一時期はミケランジェロも修行していたとか。
この苗字「ギルランダイオ」から、ドメニコは花輪職人の家に生まれたというイメージをずっと持っていたのですが…

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 トルナブオーニ礼拝堂
こちらに視線を向けているのがドメニコ(自画像)です。
ギルランダイオ
ドメニコは貴金属細工師トンマーゾ・ディ・コッラーディの5人の息子の長男に生まれました。
トンマーゾはアリエント通りに工房を持つ職人でした。
同業の職人が集まっている場所だったので、アルジェント(銀)通りから、アリエント通りという現在の名前がきているそうです。
ジョルジョ・ヴァザーリの証言では、トンマーゾは若いフィレンツェの貴婦人の頭に飾る銀製のギルランダを彫金して、名声を博した職人だったというのです。
しかしヴァザーリの本は見聞したことを書いているので、時には(しばしば?)間違いもあります。
実際にはトンマーゾの工房は、メダルや羽毛を使った輪状の飾りを安価に製作することを専門にしたそうです。

ということは、花を使っていなくても、輪状の飾りをギルランダと呼んでいたのかもしれませんね。

キリスト教はイタリアの国教なのか?

ちょっとかじる歴史の話
05 /17 2017
イタリアの公共の学校で教室に十字架が飾られているのが、論争の的になったことがありました。
キリスト教の生徒が100%ならまだしも、今や様々な宗教が共存する社会。
これは不公平ではないか?ということなんですね。
「いや、キリスト教はイタリアの国教だし」という言葉を聞いて、はてそんな法律とかあったかな?と疑問だったので調べてみました。

※ イタリアの歴史と文化にキリスト教のもたらした影響が大きいことはもちろん周知の事実ですし、そこに反論を挟む余地はないかと思います。あくまでもそのような条文があるのか?という視点です。
また前回の日記にて、イタリア在住の71.4%がキリスト教徒、そのうち66.7%がカトリック、そしてカトリックのうちpraticanti (定期的に宗教活動に参加する人)は24,4%というデータを書きました。熱心な宗教活動はしない人も含め、キリスト教徒が人口の70%ほどを占めるという事もあきらかです。

国教の定義…「国家が保護し活動を支援する宗教のこと」
そしてカトリックを国教としているのは… バチカン、アルゼンチン、コスタリカ、マルタ、スペイン、フィリピン
イタリアは入っていないんですね。

イタリアという国家ができたのは1861年。そこから教皇庁とどのような経緯があったのでしょうか?

1861年 第1回イタリア国民議会にて、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア国王と承認され、投票により王国首都はローマとされました。ローマには教皇領が存在していたのですが…

イタリア王国は教皇に対して
「ローマ市街をイタリア王国へ明け渡すこと。バチカンとラテラノ宮殿の占有を認めるが、その代わりに年32万5千リラを支払うこと」を求めます。

1870年 普仏戦争勃発により、ローマを守っていたフランス軍が撤退。イタリア王国が教皇領を占領。
1871年 イタリアの首都をフィレンツェからローマへ遷都。しかし教皇は上記の条件を拒否し、イタリア王国と対立。

1929年 ローマ教皇庁がムッソリーニ政権下のイタリア王国とラテラーノ条約を締結。
→バチカン市国が建国される。ムッソリーニの狙いは、教会との緊張状態を解決して自らの国際的地位を高めることでした。

(1861〜1929年のイタリア王国とローマ教皇庁の緊張状態を「ローマ問題」と呼びます)

ラテラーノ条約では、イタリア政府が「カトリックがイタリアの宗教において特別な地位を有すること」を約束したので、この時点ではカトリックがイタリアの国教だったと言えます。これをコンコルダート(政教条約)と呼びます。

1984年 ラテラーノ条約の改定。カトリック教会が国家に承認された特別な宗教であるという旨の部分が削除されました。

こうして1985年からカトリックはイタリアの国教ではなくなっているわけです。

しかし国営放送RAIのニュースでは、法王の謁見の儀やコメントを流しますし、イタリアの祝日の多くがキリスト教関連のお休み。国教ではないにしても、イタリアとキリスト教が今も深く結びついているのは確かですね。

参照
Patti Lateranensi
Servizio per i rapporti con le confessioni religiose e per le relazioni istituzionali

エトルリア語

ちょっとかじる歴史の話
05 /09 2017
古代ローマよりも古い時代に中部イタリアに栄えたエトルリア文明。
今日はその言語について、ピサガイド学校に通っていた時のメモをまとめます。

◉エトルリア語の文字はギリシア文字によく似ている。ギリシャ語は紀元前8世紀にはラツィオ地方に伝わっていた。
◉表音文字で読み方はわかっているが、単語の意味が不明なものが多い。
◉ほとんどの資料が碑文に書かれた文字。例外的に布地(麻)に書かれた文字、蝋を塗った板に棒で記した文字、ブロンズの薄板に書かれた文字、儀式に使ったと思われる瓦に書かれた文字などがある。
◉エトルリア語の母音はア、エ、イ、ウでオがない。
◉大文字はなく小文字だけ。
◉文章は普通は右から左へ書いていた(sinistrorso)しかし左から右に書くことも(destrorso)もあり、また各行交互に向きの変わる書き方(bustrofedico)も使用していた。
※bustrofedicoは、牛(bue)の耕作 (aratura)という意味で、古代ギリシャ語のboustrophēdónから来ています。日本語でも牛耕式(ぎゅうこうしき)とか犁耕体(りこうたい)と呼びます。

◉名前の書き方は、現代イタリア語になぞらえてみると
Marco(名) Rossi(氏族) Biondo(苗字で体の特徴を表すことに由来) Giovanni(父の名) Maria(母の名)
という順番で記していました。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。