アレッツォの歴史

アレッツォ県
08 /04 2017
トスカーナ州のアレッツォ(アレッツォ市人口1万人弱)の町の歴史についてまとめました。
ペトラルカやジョルジョ・ヴァザーリの生地でもあります。
アレッツォ

起源
アレッツォの町の起源はよくわかっていませんが、紀元前1000年ごろにはウンブリア人が住んでおり、すでにこの時代からアレッツォの名前で呼ばれていました。

エトルリア時代
放牧の季節によって過疎地帯になっていたアレッツォが「町」の体裁を整えたのがエトルリア時代です。
紀元前5世紀 エトルリア人によって最初の市壁が築かれました。エトルリア人の主要都市ルクモニアの一つとなります。
紀元前4世紀 市壁が作り直され、町はそれまでの倍の面積を持つようになります。また勢力を伸ばしてきたローマとの間に戦いが起こります。鉱物資源に富んでいたアレッツォは金属の加工品やブッケロ陶器にによって豊かになります。
紀元前4〜3世紀 もっとも広い支配地域を所有しますが、同時に衰退が始まります。

古代ローマ時代
紀元前396年 古代ローマがヴェイオを征服、続いてチェーレやタルクイニアを征服し、エトルリア都市が全体的に衰退します。支配された都市にはローマ市民権が与えられ、ローマ化していきます。
紀元前4世紀 アレッツォ、ペルージャ、キウージの都市連合はローマと戦いましたが成果は得られず。
紀元前3世紀 イタリア半島中で大きな都市であり続けますが、ローマの支配やガリア人の侵略を受けます。この時代はエトルリア人のローマ化が完成する時期にあたります。
紀元前205年 カルタゴ軍とローマ軍の戦いであるポエニ戦争にて、アレッツォ近郊のトラズィメーノ湖では両軍の大きな衝突がありました。この戦争でローマ側に大量の穀物、武具といった軍需物資を供給するなど、ローマでも重要な地位を占めていたことがわかります。

キリスト教文明
3世紀 アレッツォの地域ではキリスト教化が進みます。
250年 アレッツォに同地域の司教座が置かれます。

ランゴバルド時代
575年 ランゴバルド族がトスカーナ地方に侵入、アレッツォの人民はもっと安全なサン・ドナートの丘に避難し、そこに7世紀まで留まります。
774年 ランゴバルド族に代わり、フランク族(カール大帝)によって治められます。

司教から伯爵へ
フランク族の支配下に置かれたアレッツォでは司教の影響力が増していきます。
11世紀 司教が町の最強権力を握り、vescovo-conte(司教伯爵)という地位が生まれます。

自治都市(コムーネ)
司教の力が衰え、アレッツォの支配体制が変わります。最高権力は全市民による総体会議が握ります。町に代々住んできた市民が参加する国会のようなものです。また他のコムーネと同じようにグエルフィ派とギベッリーニ派に分裂します。
1215年 大学が創設されます。

1289年 カンパルディーノの戦い。ギベッリーニ(アレッツォ)対グエルフィ(フィレンツェとシエナ)
グエルフィ派が勝利するものの、アレッツォの町からギベッリーニを追放することはできず、かえってフィレンツェ軍への憎悪から町ではグエルフィ派が優勢を保ちます。

フィレンツェ支配
1337年 ペルージャとの戦いに苦戦したアレッツォの有力家族はフィレンツェにお金を払い、一時期の平和を得ます。
1384年 フィレンツェ軍はナポリ王位の争いに乗じて、アレッツォを支配。

メディチ時代
14世紀からメディチ支配時代が始まるまでアレッツォの人口は増える傾向にあったのが、メディチ時代には人口は減少に向かいます。他の都市ピサ、ピストイア、フィレンツェでは同時期に人口は増えていきました。
メディチ家の当主コジモ1世はアレッツォの町並みを大幅に作り変え、サンガッロ要塞を建設します。
コジモの息子のフェルディナンド1世が唯一、この地方の開拓にお金を使ったメディチ家のトスカーナ大公でした。

ロレーヌ時代
メディチ家最後の大公ジャンガストーネの統治はアレッツォに混乱をもたらしただけでした。
それに比べれば跡を継いだロレーヌ家の支配は明確に優れていて、特にピエトロ・レオポルドは交通網の整備などを行いました。その息子のフェルディナンド3世も父親の政策を継続していきます。

1799年 ナポレオンの軍隊がアレッツォに到着。町の抵抗も虚しくその支配下に入ります。
1800年 一時期フランス軍を追い払いましたが、再びナポレオン軍によって略奪が行われます。
1814年 ウィーン会議によりトスカーナ大公にはロレーヌ家が復帰。道路や橋の整備が行われアレッツォの町は復興しました。
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アンギアーリの町

アレッツォ県
09 /24 2016
レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェ共和国政府からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の500人広間に描こうとした「アンギアーリの戦い」は激しい戦闘図でした。

その戦いの歴史的舞台であったアンギアーリは今は静かな田舎の町です。
人口6千人弱、丘の高台にある町の様子は、トスカーナやウンブリア地方によく見られる風景です。
アンギアーリの町をご紹介する第3弾の今回は、町の歴史とともに旧市街の様子をご紹介します。
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ヴァルティヴェリーナの谷を見下ろす丘の上に町はあります。
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ヴァルティヴェリーナ(テヴェレ川の谷)という名前の通り、谷に沿ってテヴェレ川が流れています。
ローマ帝国時代には農場があったと思われるこの土地に、7世紀にロンゴバルド族の城が建設されました。
11世紀にはアンギアーリの城、12世紀には修道院が築かれ、周囲に町が発展していきます。
アレッツォ、ペルージャ、フィレンツェなどの都市国家が、アンギアーリの支配権を代わる代わる握ります。
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1440年には、かの有名な「アンギアーリの戦い」の舞台となりました。
フィレンツェとその連合軍の勝利を記念して、戦いのあった場所で「パーリオ」が行われることになりました。
パーリオはシエナの競馬が有名ですが、様々なレースの勝利者に与えられる賞品のことを「パーリオ」と呼び、シエナだけではなく他の町でも伝統行事のパーリオが行われているのです。

町の中で道に祝宴の支度がされていました。シエナのパーリオの祝宴によく似ていますが、もしかしてアンギアーリのパーリオに関連が?
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アンギアーリの戦いの後、町の歴史はフィレンツェと深く繋がれます。
ナポレオン支配の後、リソルジメントの時代にアンギアーリの市民の一部がガリバルディに協力して戦うなど、イタリア統一運動でも活躍しました。
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現在、アンギアーリは「 Borghi più belli d'Italia イタリアの最も美しい村」というアソシエーションに属しています。
この民間団体は、歴史的な遺産や景観を有する小規模な自治体(コムーネ)や分離集落(フラツィオーネ)によって構成されています。主要な観光ルートから外れているために忘れられている小規模な村の保全・整備・再活性化を図るのが目的です。2001年の創立時には100の村で構成されていましたが、2016年には258村を数えるまでに成長しています。

アンギアーリの戦い 2

アレッツォ県
09 /23 2016
レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェ共和国政府からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の500人広間に描こうとした「アンギアーリの戦い」は激しい戦闘図でした。

その戦いの歴史的舞台であったアンギアーリをご紹介する第2弾です。

1440年 アンギアーリとサンセポルクロの間で行われた戦いに参戦したのは
ミラノ公国軍 1100人
フィレンツェ・ヴェネツィア・教皇領連合軍 9000人

ミラノ軍にはサンセポルクロから2000人が加わり、合計3100人の軍となります。

戦闘開始は6月28日。ミラノ進軍による粉塵を見て、アンギアーリでは警戒態勢に入ります。

アンギアーリからサンセポルクロの方角を見下ろす坂。奥にサンセポルクロの町が見えます。
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ヴェネツィアの騎士たちが、連合軍がいる平野につながる運河の橋で、ミラノ軍の先発隊を止めます。
その間に連合軍は戦いの体制を整えます。しかしミラノ軍にピッチニーノ隊長の援軍が追いつき、連合軍はアンギアーリの方向に後退をします。

アンギアーリの美術館の中にあるジオラマ。
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その後、ミラノ軍の右側面に教皇軍が攻撃をかけ、ミラノ軍は橋まで後退。

ジオラマには橋近くの戦死者の様子まで再現されています。
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ヴィスコンティに雇われたジェノヴァの傭兵が応戦するも、連合軍の勢いは止まりません。4時間にわたる戦闘はミラノ軍の3分の1が分断され、夜中に連合軍の勝利にて決着がつきました。戦死者は900人ほどだったと推定されています。

この戦いの様子をマキャベリが執筆し、レオナルドが壁画で残そうとしたのです。

現代のアーチストがレオナルドの作品にインスピレーションを受けて描いた作品がこちら。
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次回は中世の面影が残るアンギアーリの町の様子をご紹介します。

アンギアーリの戦い

アレッツォ県
09 /22 2016
フィレンツェのヴェッキオ宮殿、500人広間では現在ヴァザーリ作の大きなフレスコ画が壁を飾っています。
その漆喰の下にはレオナルドが未完のまま残した壁画が眠っているといわれていますが…

レオナルドの未完作品をルーベンスが模写したもの
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レオナルドが扱った壁画の題材は「アンギアーリの戦い」でした。

アンギアーリの戦いは1440年に、ヴィスコンティ家が治めるミラノ公国軍と、フィレンツェ共和国+ヴェネツィア共和国+教皇領の連合軍の間で行われた戦いです。
15世紀のイタリア半島の勢力関係を決める非常に重要な戦争でした。
その数年前からイタリア半島ではミラノ公国とヴェネツィア共和国の衝突が繰り返され、フィレンツェは最初はヴィスコンティ側につき、そして1425年からはセレニッスィマ側に移ります。強くなりすぎた公国をけん制する意図がありました。
これは教皇側とも一致する利益がありました。1431年にはフィレンツェに友好的ではなかった法王マルティーノ5世が亡くなり、新法王エウジェーニオ4世はフィレンツェと新しい同盟を組むことに乗り気でした。

1440年 ニッコロ・ピッチニーノに率いられたミラノ軍がトスカーナに侵入。アンギアーリ村とサンセポルクロ村の間で連合軍と対峙します。

ミケランジェロの生地カプレーゼを訪れた機会に、近郊のアンギアーリも行ってみようと思い立ちました。
何しろレオナルドが描いた戦闘が繰り広げられた場所としか知らなかったので、「荒野、平原」のイメージしかありませんでした。

ところが…
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丘の上にどーんと大きな町が!
人口5600人、海抜430mの高台に城壁に囲まれた立派な町なのです。

町の地図
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城壁の上から平野を見下ろします。ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画作品の澄み渡った空の色を彷彿とさせる風景です。彼の生地サンセポルクロも近郊にあります。
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次回に続きます!

カプレーゼ村の城塞美術館

アレッツォ県
09 /20 2016
ミケランジェロの生地カプレーゼ村を紹介する第3弾です。

ポデスタの館で生まれたミケランジェロ。
その生家の隣には中世に建設された城塞が残っています。
生家の中にも、この城塞の中もミケランジェロの作品の石膏モデルがずらり。
今回は城塞の中の様子をご紹介します。

城塞一階のホール
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石膏の作品も、コピーからまたコピーを作ってと繰り返すとだんだんと本物の造形と離れた劣化コピーになっていくそうです。日本の美術専門学校の先生が「さすがにイタリアの石膏モデルは本物に近い!」と感心しておりました。

この3作はフィレンツェのバルジェッロ博物館にある作品の石膏コピーですね。
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さて外部の階段を使って二階に行くと、そこは2006年にエンリコ・グイドーニ教授によってカプレーゼに寄付された189点の彫刻が設置されています。
1800〜1945年代の作品群です。教授はローマの大学「Velle Giulia」で歴史を教えていました。亡くなったのが2007年ですので、その前年にコレクションを寄付したことになります。

Pirelli, Gemito, Vela, Cecioni, Barbella, Grandi, Bazzaro…19〜20世紀の重要な芸術家の作品が集まっています。

ダンテの像
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日常の生活、それも下級市民の様子を表現することが19世紀に流行しました。
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Santarelliの作品。ウッフィツィ美術館の中庭の壁龕に設置するミケランジェロの銅像のために作った習作です。
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こちらのホールには、ミケランジェロ生誕500周年を記念して芸術家たちから寄付された作品を展示しています。20世紀の作品です。
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また城塞の庭にも現代彫刻が展示されています。捻るポーズがミケランジェロの作品を彷彿とさせます。
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緑豊かなカプレーゼ村。
ミケランジェロがここで生まれて過ごしたのはたった1ヶ月弱ですが、それでもルネッサンスの巨匠の一生がここで始まったんだ!と感慨ふけることができます。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。