法王から聖務禁止を食らったピサ共和国

ピサ県
06 /18 2017
有名な斜塔があるピサの大聖堂広場、その南側を閉じるような形で建っているがシノピア美術館です。
ここには同じ広場にあるカンポサントの壁から剥がされたシノピア(フレスコ画の下絵)が展示されています。
シノピア美術館1
この東西に延びる大きな建築はもともと病院でした。その建築には中世のピサの歴史が絡んでいます…

1220年 この頃からトスカーナ地方の自治都市間の戦いが始まります。
1222年 「ボスコロ城の戦い(ピサVS.ルッカ〜フィレンツェ連合軍)」は、トスカーナで起こった最初の都市間の大きな戦争でした。ここでピサは敗退します。

都市国家は、それぞれギベッリーニ派(神聖ローマ皇帝派)とグエルフィ派(教皇派)に組し、戦いを行います。また都市国家内にもギベッリーニ派の有力市民とグエルフィ派の有力市民がいて、内部抗争を起こします。中世を通じてイタリア中部でこのような紛争が繰り返されました。そしてピサ共和国は神聖ローマ帝国に強く結びついていました。

13世紀半ばの神聖ローマ帝国皇帝はフェデリコ2世(フリードリヒ2世)そしてローマ法王はグレゴーリオ9世(グレゴリウス9世)でした。

1240〜1250年 フェデリコ2世はトスカーナ都市を支配下に置き、町の自治を許しませんでした。ピサのポデスタ(執政長官)も皇帝から直接に選ばれました。

1241年 グレゴーリオ9世はフェデリコに対抗するため、ローマで公会議開催を計画します。このことを知ったフェデリコは、ローマへ航海中であった教皇特使を載せた27艘のジェノヴァ船をピサ艦隊に捕らえさせます。
多くの聖職者が殺されたり、捕らえられたので公会議は開催できませんでした。

ローマ法王は激怒し、ピサの町全体にinterdetto(秘跡や聖務への参加を禁じる)を命じました。scomunica(破門)ではないと地方史の先生は説明していました。

1241〜1257年 ピサ共和国は政治的に孤立します。国内ではヴィスコンティ家(ギベッリーニ派)とゲラルデスカ家(グエルフィ派)の抗争が起きます。

1257年 新法王アレッサンドロ4世はピサの町の聖務禁止を解除します。その条件は
◉2度と司教や教皇特使の活動を邪魔しないこと
◉1万リラを使い、新しい病院を建設すること

こうして病院がジョヴァンニ・ディ・シモーネ(カンポサントや斜塔の一部を手がけた建築家)の指揮により建てられたのです。

シノピア美術館となった経緯は
1944年 カンポサントにて爆撃による火事が起きます。
1947年 カンポサントの壁から最初のフレスコ画が剥がされる作業が行われます。
1976〜1979年 フレスコ画の下絵シノピアを展示するために病院を改築。
1979年 シノピア美術館として開館。

参照 comune.pisa.it
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。