ポッジョ・ア・カイアーノ(1)メディチ別荘の歴史

フィレンツェ市
02 /19 2014
フィレンツェの支配者であったメディチ家が建設したポッジョ・ア・カイアーノの別荘
「Ambra(琥珀)」という愛称でも呼ばれたこの別荘はトスカーナ州のプラート県に位置し、現在は国の所有となっています。
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この別荘はメディチ当主ロレンツォ豪華王が、ジュリアーノ・ダ・サンガッロに1480年の頃に建築を依頼したと考えられています。建物内部と外部を繋ぐロッジャ、中心となる広間を軸に置き左右対称に展開する空間、周辺風景を見渡せる別荘の位置、古代建築のモチーフ挿入などのエレメントは、その後に建設される他の別荘のモデルとなりました。

まず別荘の歴史について見ていきたいと思います。
◉15世紀
別荘はポッジョ(丘)の中心に位置します。フィレンツェ〜ピストイア間の道を望むことができる地点です。
メディチ家のロレンツォ・デ・メディチがルチェライ家から買い取った領地に別荘を建築をさせます。
ロレンツォはお気に入りの建築家であったジュリアーノ・ダ・サンガッロに、農地を調和感に満ちた空間に変身させるよう命じました。
ロレンツォの祖父コジモが、それより30年前に建築させた要塞型の別荘(カレッジなど)という概念から抜け出て、新しいタイプの別荘建築に乗り出しました。これは政治的な情勢も反映されています。ロレンツォの絶対的支配は安定した時代を生み出していたのです。
また人間が自然を意思のままで塑造できるという、人間をdemiturgo(デミウルゴス、プラトン哲学における世界の形成者)と見る当時の人文主義者の哲学にも沿った環境をつくり出します。
革新的な建築要素の一つとして、周りの景色と別荘を繋ぐアーケード空間が別荘正面にあります。アーケードと古代建築風のペディメントが地上階から建築の中心であるpiano nobile(2階)まで延び、中庭の中継無しで2階にアクセスできます。
別荘は次第に建築、絵画、彫刻と美術品で豊かになります。ロッジャの下にはフィリッピーノ・リッピのフレスコ画があり、マジョリカ焼きの陶器で飾られたペディメントはおそらくアンドレア・サンソヴィーノの作品です。
1492年のロレンツォが亡くなった時、この別荘の大部分はまだ未完でした。またメディチ家のフィレンツェ追放なども重なり、別荘は長い期間、建築中断の憂き目に遭うのです。

◉16世紀
ヴェッキオ宮殿のストラダーノが描いたフレスコ画にはエレオノーラ・ディ・トレドの一行がポッジョ・ア・カイアーノの入る様子があります。
メディチのフィレンツェ復帰により、ロレンツォの息子ジョヴァンニ(のちの法王レオ10世)により別荘の建築が完成します。年老いたジュリアーノ・ダ・サンガッロはその死を迎える1516年まで工事を進め、その後は彼の木造のモデルを元に建築が行われました。
完成した中心の広間のアーチ型天井には法王のシンボルが飾られ「レオ10世の間」と呼ばれます。この部分はアンドレア・ディ・コジモ・フェルトリーニフランチャビージョが担当しました。このような大きなアーチ型天井は崩壊の危険があるのではないかと、当初は心配されていましたが、サンガッロはフィレツェに建設中であった他の建築にて大きなアーチ型天井をプロトタイプとして試験的に建設して、疑問を取り払ったと言われます。
レオ10世の時代から「マニエリズム」の画家たち(アンドレア・デル・サルト、ポントルモ、フランチャビージョ)によって、広間のフレスコ画を描かせました。このフレスコ画は50年後に、オリジナルの計画を変えることなく、アレッサンドロ・アッローリの手によって完成されます。

ポッジョ・ア・カイアーノはメディチ家の夏の居城として使われました。多くの客人を迎え、その宮廷の重要な事件の舞台ともなった場所です。
メディチ家に他家からお嫁入りする女性は、まずフィレンツェに入る前にこの別荘に滞在することが習慣でした。この場所で歓迎の意としてフィレンツェの貴族たちからの贈与品を受け取ったのです。
また結婚式も行われました。アレッサンドロ・デ・メディチとマルゲリータ・ダウストリア、コジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレド、フランチェスコ1世と元愛人のビアンカ・カッペッロ。
このうち最後の二人は、後にこの別荘で10日ほど苦しんだあげくに、続いて息を引き取りました(毒殺されたとの説もあります)

◉17~18世紀
1661年、コジモ3世との婚礼のため、ルイ14世のいとこであるマルゲリータ・ルイーザ・ドルレアンズがフィレンツェに到着します。宗教に熱心であったコジモ3世とまったく違った性格を持っていたマルゲリータは夫と姑によってこの別荘に退けられます。150人もの召使いを連れ従えてきたマルゲリータは、1675年に完全にフランスに帰ってしまう前に、ここに大きなテアトロを建設させました。

別荘はコジモ3世の息子フェルディナンド皇子のお気に入りの場所となります。フェルディナンド皇子は芸術を愛する気質で、ここに文化の中心となるサロンを開きます。テアトロでは喜劇を上演し「ガビネット」と呼ばれる「有名な画家の小さな作品」コレクションを並べました。一つの部屋に作品数は174枚にも及び、デューラー、レオナルド、ラファエロ、ルーベンスの作品が並んでいたそうです。このコレクションは1773年にロレーヌ家によってばらばらにされましたので、現在では見ることができません。

フェルディナンド皇子の弟ジャンガストーネの死により、別荘は新しいトスカーナ大公ハプスブルグ・ロレーヌ家へと渡ります。この時代にも夏の間の居城として、またはプラートやピストイアに向う区間の休憩所として使用されました。
ロレーヌ家は農地、別荘にかける予算を縮小させます。いくつかの別荘は使われなくなり、それらの別荘の家具は主要な住居であるピッティ宮殿へと移らせます。
ポッジョ・ア・カイアーノの別荘はそのような運命は逃れました。ジュゼッペ・ルッジェーリジョヴァンニバッティスタ・ルッジェーリは修復を担当し、劇場を改築し、ファサード(正面)に時計を取り付けます。
フェルディナンド3世の時代には、別荘前の公園に遊具なども設置されました。

◉19世紀
ナポレオンのイタリア支配の時代に、別荘は内部外部ともに改築されます。ナポレオンの妹エリーザの気に入りの住居の一つとなった別荘は、彼女がヴァイオリン奏者ニッコロ・パガニーニと愛人関係を持つ場所になったと考えられています。パガニーニを始めとして、パイズィエッロなど多くの音楽家がこの別荘でコンサートを開きました。
別荘の17の部屋のフレスコ画はこの時代にエリーザの注文で、カターニが描いたものです。庭園もジュゼッペ・マネッティによってイギリス風庭園に改築されました。

カターニのフレスコ画
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イタリアが統一され、フィレンツェがイタリアの首都となった時代。イタリア王エマヌエレ2世は狩猟を愛し、別荘を狩猟の基地として改築します。厩が築かれ、地上階部分にビリアードホール、昼食ホールなどが造られます。王は愛人ロジーナをここに住まわせ、後に彼女はエマヌエレ2世と貴賎結婚(身分の高い男性と身分の低い女性が、身分や財産を継承しないという約束で取り交わす結婚)します。
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次回はポッジョ・ア・カイアーノ別荘の細部を見ていきたいと思います。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。