フィレンツェの隣町 プラート

フィレンツェ市
05 /06 2014
プラートは20万人ほどの人口を持つ、トスカーナ州の町です。
フィレンツェに次いでトスカーナでは2番目に大きく、また中部イタリアでは3番目に人口が多い町となります。
プラート

プラート周辺の丘陵には旧石器時代から人が住んでいましたが、そのうち平野にエトルリア人が町をつくります。
1998年、近隣のカンピ・ビゼンツィオ(フィレンツェ〜プラート間の地域)で、都市の遺跡が発見され、一部の学者によれば、神話上の都市カマルではないかということです。エトルリア都市は紀元前5世紀まで存続したようです。その後、古代ローマ人がエトルリア都市を南から制圧してきますが、プラートには定住地をつくりませんでした。

プラートが再び町として歴史に登場するのは10世紀からです。コルニオ村とプラティ城塞が、城の領主アルベルティ家により融合されました。アルベルティ家は神聖ローマ帝国よりプラート伯の称号を授かっていました。当時はトスカーナは真性ローマ帝国の辺境領だったのです。

12世紀にはプラートは、コムーネ(自由都市)として独立。2世紀の間、繊維産業を地盤に繁栄し、人口も1万5千人までのびます。町の城壁は町の拡張にともない、12世紀と14世紀の2回にわたって建設されます。
14世紀、力を伸ばしてきたフィレンツェ共和国に対抗するため、プラートはナポリ王のもとに自発的に従属することにしますが、ナポリ女王はプラートをフィレンツェへ売り渡してしまいました。

16世紀のカンブレー同盟戦争(ヴェネツィア対ヨーロッパ各国の戦い)の最中、教皇と神聖ローマ皇帝がフィレンツェの町から追放されていたメディチ家のために、スペイン軍を招集しプラートの町を掠奪します。これはフィレンツェ共和国の支配地に損害を与えるためでした。この時にプラートでは5万人もの市民が虐殺されたといいます。事件の後、メディチ家のフィレンツェ復権がなります。

現代でもプラートの経済は繊維の生産が大きな特徴です。19世紀の時代に工業地域として発展し「トスカーナのマンチェスター」と呼ばれるぐらいでした。
このため外部から労働力が流れ込み、南イタリアから、外国から、1980年代からは中国人移民が増え、2010年頃の調査ではプラート人口の6%ほどが中国人となっています。他の主な移民であるアルバニア人、ルーマニア人、パキスタン人を合わせると全人口の移民比率が10%にのぼります。

次回からプラートの見どころをまとめます。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。