シエナ共和国の歴史

シエナ県
01 /23 2015
フィレンツェの南に位置しるシエナ(イタリア語での発音はスィエナが近い)は、海抜300mの連なる3つの丘の上にある都市です。人口約5万3000人ほど。
中世の時代には金融業で栄え、今も町のメインストリートの名前にその名残があります。旧市街が「シエナ歴史地区」として1995年からユネスコの世界遺産として登録されています。
シエナ
今日はこのシエナの歴史を簡単にまとめます。

古代
エトルリア人の居住地があったとされますが、その頃の姿ははっきりわかっていません。
ローマ帝国建国の双子ロムルスとレムスの仲違いによって逃れてきた、レムスの息子たちセニウスとアスキウスがシエナの町を建国したという伝説が残っています。そのためシエナのシンボルは古代ローマと同じ「雌狼の乳を飲む双子」です。実際にはローマ時代には主要な街道から外れていて、キリスト教が伝わったのも4世紀でした。

中世
6世紀半ば 北イタリアに侵入したランゴバルド族(北欧から来た民族。イタリア半島の北部から中部を2世紀に渡り支配する)が王国を建国。東ローマ帝国勢力下の街道を避け、新しい「フランチージェナ街道 Via Francigena」が整備されます。これを北からローマに向う巡礼者や商人が使うようになったため、街道沿いに宿場町が発展しますが、シエナもその1つでした。シエナには安定した収入がもたらされるようになり繁栄します。
774年 カール大帝によってランゴバルド王国は滅ぼされ、実質的にシエナはフランク王国の領域に編入されます。

シエナ共和国時代
1115年 トスカーナを治めていた女伯マティルデ・ディ・カノッサが死亡、所領は教皇領、皇帝領となりましたが、各都市は次々に独立を宣言し、北イタリアは都市国家に分裂します。
1167年 シエナのコムーネ独立宣言。

1194年 現在の市庁舎のある場所で、土壌浸食を防ぐための壁が建設されます。
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13世紀初め カンポ広場が市民生活の中心の場として整備されます。
1240年   シエナ大学(法学と医学が有名)が設立。

独立した都市国家はコンタード(領地)獲得のため、周辺の都市国家との戦争を始めます。
シエナ共和国は、内部に貴族と市民の間の対立、外部ではフィレンツェ共和国との抗争に対応しなければなりません。都市国家内部でも、都市国家間でも、教皇派(グエルフィ)と皇帝派(ギッベリーニ)の抗争時代です。ライバルのフィレンツェがグエルフィ派、シエナはギッベリーニ派でした。

1265年 モンタペルティの戦いでは、シエーナはフィレンツェに大勝を収めます。この時に「フィレンツェに勝利した暁にはシエナはマリア様に捧げます」との祈禱をしていたことから、シエナは「聖母の都市」と呼ばれることになりました。

1269年 コッレ・ヴァル・デルサの戦い フィレンツェに大敗を喫しています。この敗戦で皇帝派の政府が倒れ、フィレンツェとの関係が改善されました。

1348年 黒死病の流行。
1458年 シエナ出身のピウス2世が教皇に選出されます。
1472年 モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行が創業。現在営業している銀行では世界最古の歴史を持ちます。シエナ市民の多くがこの銀行に関係している人間が家族にいるという状態です。
1555年 シエナはスペインに降伏し、シエナ共和国の歴史が終わりを告げます。
1559年 カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争後、フランスとオーストリア・スペインが結んだ講和条約)にて、スペインはシエナをフィレンツェ公国に割譲します。

フィレンツェを治めていたメディチ家はシエナを含むトスカーナのほぼ全域を手中におさめ、トスカーナ大公国とします。こうしてシエナは19世紀にイタリアが統一されるまで、トスカーナ大公国の一部としての歴史を歩んでいきます。

今でもイタリアではカンパニリズモ(郷土愛)が大きいのですが、これはそれぞれの町が独自の歴史を歩んできたことに関係しています。
ちなみにフィレンツェのサッカーチーム「フィオレンティーナ」のファンと、トリノの「ユベントス」のファンはとても仲が悪いことで知られていますが、そのユベントスのチームカラーが白黒。実はシエナのサッカーチームも同じシンボルカラーを使っているんですね。こちらはシエナの町のシンボルである、バルザーナと呼ばれる二色紋から来ているのですが、よくできた偶然です。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。