シエナ大聖堂 ピッコローミニの祭壇

シエナ県
02 /11 2015
シエナ大聖堂の右身廊にあるピッコローミニ祭壇は、フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニ枢機卿の希望で建設されました。建築はアンドレア・ブレーニョによってカッラーラの大理石を使い、1481〜1485年に造られ続く10年で装飾されます。
中でも4体の壁龕の中の彫刻はミケランジェロが助手の手を借りつつ、1501〜1504年に彫った作品です。
ピッコロ祭壇3
スポンサーの枢機卿は後に法王ピオ3世となります。叔父でやはり法王であったピオ2世に捧げるために祭壇の建築を命じたのです。同時にシエナの政治と文化の分野におけるピッコローミニ家の存在を誇示する目的がありました。この祭壇を自分の墓所とする予定でしたが、実際には彼はバチカンの地下に眠っています。
この位置にはもともと靴職人組合がつくらせた「生誕のマリア」の祭壇がありました。組合は枢機卿にこの場所を譲ることによって、他の場所に祭壇を置くことを期待していましたが、空間が余っていなかったため、枢機卿とこの空間を共有することが強制されました。

祭壇を担当したアンドレア・ブレーニョは、パオロ・ディ・ジョヴァンニ・フェイの祭壇画「謙遜の聖母」の額縁と壁龕の14体の彫刻は制作しませんでした。建築が完成した段階でブレーニョはすでに69歳、体力の限界かインスピレーションが湧かなかったのか、祭壇を未完のまま残してローマに帰ってしまいます。彼の弟子たちが祭壇画を設置する周辺部分を制作します。

枢機卿はピエトロ・トッリジャーニに丸彫り彫刻を依頼します。原因はわかりませんが、彼の作品は左上の聖フランチェスコの像しか残っていません。

ここでミケランジェロの登場です。若きミケランジェロの才能に驚いた銀行家ガッリの仲介によって、枢機卿はミケランジェロに彫刻を依頼します。
ちなみにフィレンツェのバルジェッロにはこのガッリの依頼によってミケランジェロが彫ったバッカスがあります。ローマではピエタを彫ってさらに名声を得て、フィレンツェに帰ってはダヴィデを制作していた時期です。すでに名声を博していたミケランジェロはシエナの仕事は副次的な仕事と考え、断続的に作業をしています。
枢機卿は1503年に法王となりますが、わずか26日後に亡くなります。その相続人がミケランジェロを説得して、新しい契約を結び、助手と共に4体の彫刻を完成させたのです。その他の像は度重なる請求に限らず、制作されませんでした。結局1530年代にミケランジェロとの契約は破棄されます。この時にピッコローミニ家は祭壇の完成をあきらめたため、未完のままとなりました。

18世紀に中央の壁龕に聖母子像が設置されます。これはヤコポ・デッラ・クエルチャの作品と考えられていましたが、今はジョヴァンニ・デル・チェッコの作品とされます。トマスアクィナスの祭壇から移設されたものです。

祭壇はローマのサンタ・マリア・デル・ポーポロ教会にブレーニョ自身が建設した祭壇からインスピレーションを得ていて、花輪やフルーツ籠などの豊かな浮き彫りで溢れています。三日月はピッコローミニ家の家紋です。
最初はピッコローミニ家とシエナに縁深い14人の聖人を設置する予定でした。

残っている作品は左下から
聖ピエトロ(ミケランジェロ)
ピッコロ祭壇2
聖アゴスティーノ(ミケランジェロ)←以前は聖ピオと考えられていました
ピッコロ祭壇1

聖フランチェスコ(トッリジャーニ、ミケランジェロによる修正?)

右下から
聖パオロ(ミケランジェロ)
聖グレゴーリオ(ミケランジェロ)

参照 Francesco Caglioti, in Le sculture del duomo di Siena, Silvana Editoriale, 2009
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。