死にゆく町 チヴィタ・ディ・バーニョレージョ

ローマ
03 /14 2015
「La città che muore 死にゆく町」という異名を持つCivita di Bagnoregioはラツィオ州にあります。
オルヴィエートに町に近いのでウンブリア州と勘違いしそうですが、州境に近い位置のラツィオ側なのです。
チヴィタ1
1965年に建設された、たった1本の橋がチヴィタへの道です。
徒歩で橋を渡るしか町への侵入手段はありません(時間帯によっては、住人と許可を受けた人だけがバイクで橋を渡ってもいいことになっています)
ちなみ住人はたったの6人だそうです(2015年3月現在)

このような孤立した地形は、周囲の谷と丘の浸食作用によるもので、バッドランド(伊語 calanco)の典型的な様子です。バッドランドとは、非固結の粘土,泥,花崗岩の風化層などから成る地表に,多くの雨裂が深く刻まれて形成された地形のことです。
浸食作用は今も進んでいて、いつか消えてしまう町「死にゆく町」なのです。
現地のガイドによれば、浸食は1年に平均1cmずつだとか。

バッドランドは西にボルセーナ湖、東にテヴェレ川の谷があります。リオトルビド谷とリオキアーロ谷に挟まれていますが、以前はもっと柔らかい丘陵線だったのです。そこにはボルセーナ湖とテヴェレを結ぶ道があったはずです。

地下深くには粘土層があり、この地域が昔は海の底であったことが伺えます。その上に凝灰岩と溶岩の層があります。実はボルセーナ湖はその昔は火山の火口だったのです。チヴィタの周りの露になっている地層を見ると、何重にもなった地層がはっきりとわかるのですが、これは噴火の度に降り積もった跡なんだそうです。
ちなみに雨水や有機成分はこの粘土層の上に溜まるので、この土地のオリーブオイルは美味しいものが採れると聞きました。

チヴィタの急激な浸食作用の原因は上のような地層の他にも、川の流れや樹木の伐採、地震などがあります。
ルネッサンスの時代にも大きな地震があり、町が壊滅的な状況になった時、多くの市民はチヴィタからバーニョレージョ(橋渡る直前の町)に移動したそうです。

もともとチヴィタは2500年前にエトルスキによって建設された町です。テヴェレ(当時はイタリア中部の船が行き交う大きな川でした)とボルセーナ湖を結ぶ、イタリアでも最も古い街道沿いに作られた町でもありました。

その昔は5つの門からチヴィタに入ることができましたが、現在ではそのうちの1つ、サンタマリア門しか残っていません。これが唯一の町への入り口になっているのです。
この門から入る道がデクマヌス(道の中心を通る東西の道)で、南北に通じる道カルドとともにエトルリア時代の町の構造を遺しています。デクマヌスとカルドはエトルリアから古代にローマに受け継がれた町の構成方法でした。古代ローマ起源の町には必ずデクマヌスとカルドがあったのです。

サンタマリア門から現在は弓なりの下り坂が続いていますが、その昔は門から同じ高さの道がバーニョレージョまで真っすぐ続いていたそうです。凄まじい土地の変化です。

一方、チヴィタの町の建築は中世からルネッサンス時代のものが残っています。
エトルリア関連の遺跡もあり、聖フランチェスコが聖ブオナヴェントゥーラを治療したとされる洞穴も、エトルリアの墓室であったと考えられています。
重要な街道沿いであったチヴィタは、エトルリア時代には栄えた町だったのでしょう。

町の中に残る中世の建築では、サンドナート教会、司教館、16世紀の風車小屋、聖ブオナヴェントゥーラの生家、サンタマリア門などが残っています。

中心の広場に面した建築の1つはワシントン大学の所有になっていて、夏になると建築を勉強する学生が通うようになっています。夏は小さい町ながらも、冬とは違った活気があるのでしょう。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。