州都ボローニャの歴史

エミリアロマーニャ州
07 /15 2015
イタリアはエミリアロマーニャ州都のボローニャは、人口38人と、フィレンツェと同じぐらいの人口を持つ都市です。
東京の板橋区と友好都市関係を結んで2015年で10周年記念ということで、ボローニャでお仕事をする機会がありましたので、ボローニャについて書いていきたいと思います。
ボローニャ1

◎歴史
古代
紀元前3000年
この時代から人が住んでいた形跡があります。

紀元前9世紀
ヴィッラノーヴァ近郊に大きな集落が形成されていたことが、19世紀に行われた発掘からわかっています。
紀元前6世紀まで現在ボローニャがある地域には、ヴィッラノーヴァ文明と呼ばれる鉄器時代の民族がいくつかの集落をつくります。

紀元前7〜6世紀
ヴィッラノーヴァ文明が文化的芸術的にエトルリア文明と関係があったことがわかっています。ただし民族の構成はウンブリア州のエトルリア人とは違ったものでした。

紀元前5〜4世紀
北からのガッリ族が侵入してきたためエトルスキは少数民族となっていきます。

紀元前2世紀
ガッリはローマ帝国の支配下に入り、ローマ植民都市「Bononia ボノーニア」が建設されます。

中世
西ローマ帝国滅亡により、ピザンティン帝国のテオドリコ、続いて8世紀にはランゴバルド族支配下に入ります。いずれの時代もボローニャはこの地方の軍事的拠点となっていました。
8世紀終わりには町はフランク王国のカール大帝に降伏し、大帝は町を法王アドリアーノ1世に献上しました。

10世紀
町への人口集中により自治都市への機運が高まり。1115年のカノッサのマティルデの死を機会に、その翌年に独立します。

12世紀
町は拡大し、多くの塔型住居が建設されます。運河を使った交易が盛んとなり、また水車を使って工業が栄えていきました。
運河を使って海に出て、約40時間でヴェネツィアまで達することができたそうです。この時代にボローニャは5〜6万人の人口を持つにいたります。これはミラノと同レベルの人口の多さで、当時のヨーロッパでは第5位でした(順位はコルドヴァ、パリ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ボローニャ)特に布地(絹)の生産で豊かな町となります。

13世紀
グエルフィ派とギッベリーニ派の戦いに巻き込まれ、両派が交互に町を支配します。この時代に神聖ローマ帝国フェデリコ2世の息子エンツォを捕らえ、エンツォ宮殿にその死まで幽閉しました。

14世紀
自治都市として衰退し、次第に教皇の権力の元に置かれるようになります。幾つかの有力なファミリーにおけるシニョーリア制を通し、1506年にユリウス2世のもと、教皇領の傘下に入りました。

近代
教皇領であったのは1507年から、ナポレオンのボローニャ入城の1796年までの長い期間です。
ウィーン会議の結果、町は教皇領に戻っていきますが、オーストリア軍が常駐するようになりました。その後、1860年のサルデーニャ王国のイタリア王国宣言から1年後の1861年にイタリアに編入されます。
この頃、繊維産業の衰退によって、町の産業は鋳型やパッケージ産業へと移っていきました。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。