イタリアで4番目に大きなサン・ペトローニオ教会

エミリアロマーニャ州
07 /22 2015
サン・ペトローニオ教会(La basilica di San Petronio)はボローニャの重要な教会です。
しかしカテドラーレではありませんので、司教座は他の教会にあります。町の中心のマッジョーレ広場に位置し、正面部分は未完となっています。
サンペトローニオ
ヨーロッパでは6番目に大きな教会(長さ132m、幅60m、ファサード高さ51m)で、これはヴァチカンのサン・ピエトロ聖堂、ロンドンのセント・ポール寺院、セビリア大聖堂、ミラノ大聖堂、フィレンツェ大聖堂に続く大きさとなります。
イタリアでは4番目、サン・ピエトロをイタリアではなくヴァチカン市国と考えると3番目に大きいということになります。

町の守護聖人サン・ペトローニオ(5世紀の司教)に捧げられた教会で、1390年に着工しました。
ミラノ大聖堂より数年遅れで着工され、イタリアゴシック後期の最後の大きな建築です。
多くの教会は後陣→ファサードへと建築を進めていくのですが、ファサード→後陣の方向で建築が進みました。

15世紀
最初の設計者アントニオ・ディ・ヴィンチェンツォは2つのスパンと4つの側面の礼拝堂を建築した段階で亡くなります。
シエナの彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャが正面扉の浮き彫りを委任されますが、こちらも彼の死によって未完のままとなりました。

工事は中断をはさみながら進みます。しかし1496年には入り口から75m(従って4スパンのあたり)に主祭壇が設けられ、ミサが行われた記録があります。

16世紀
アントニオ・アッリグッツィが建築主任になります。正面の小さい扉2つの完成と、ファサードの大理石の化粧板による装飾を進めます。

またミケランジェロが制作した法王ユリウス2世のブロンズ像(David De Rohanと共に、彼の唯一のブロンズ作品です)がファサードに設置されました。
これには政治的な意味合いがありました。町の自由と自治権のシンボルとして建設された聖堂ではあったのですが、実際のところ町は教皇の支配下にあるということを示す像だったのです。ユリウス2世のために町を追放されたベンティボーリョ家の支持者によって、残念ながらこの作品は破壊されてしまいます。
このブロンズはフェッラーラ公アルフォンソ・デステの手に渡り、溶解されて「ジュリア」という名前のカルバリン砲を造るのに利用されたそうです。もったいないですね…

アッリグッツィはフィレンツェに赴き、大聖堂のクーポラを学んで帰ってきます。これを参考にサン・ペトローニオ教会には大きなクーポラを建設する予定でしたが、これは残念ながら未完のまま終わってしまいます。

1530年、カール5世はこのバジリカで、クレメンテ7世から神聖ローマ皇帝として戴冠されました。
1527年のローマ劫略によって、ローマが破壊されたため戴冠式の候補から外れたためです。ボローニャは当時ローマに継いで、教皇領の重要都市でした。

また法王ピオ4世は周辺の建築を進めましたが、その中にはアルキジンナーズィオ(ボローニャ大学Studium bologneseの本部)もありました。これは工事が進んでいたサン・ペトローニオ教会がサン・ピエトロ寺院の大きさを超えることができないようにする狙いがあったものと考えられています。

17世紀
長い間留まっていた工事が再開され、ローマ人のジローラモ・ライナルディが建築主任となります。
その後フランチェスコ・マルティーニによってヴォールト(半円筒の天井)が完成されます。こうしてそれまでは木造の天井であったものが、すでに時代は過ぎてはいましたがゴシック様式で完成されたのです。

1656年には現在の後陣も建設され、聖歌隊席、主祭壇の階段、その上に聖体用祭壇が造られました。

20世紀
ボローニャの自由のシンボルとして造られたサン・ペトローニオ教会は1929年にようやくカトリック教区の教会となり、1954年に聖別され、2000年から守護聖人サン・ペトローニオの遺体が保存されることになりました(それまではサン・ステファノ教会にありました)
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。