フィレンツェの守護聖女レパラータ

フィレンツェ市
01 /17 2016
フィレンツェのドゥオモの正式名称は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会で、1296年に着工されました。
それ以前に同じ場所に建っていた教会はサンタ・レパラータ教会という名前を持っていました。
大聖堂付属美術館に入ると、聖女レパラータの像が展示されています。

アンドレア・ピサーノ作「サンタ・レパラータ」
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フィレンツェにとって重要であったこの聖女はどのような人物なのでしょうか。

聖レパラータは3世紀ごろのパレスティナ出身の殉教聖人で、中世の時代に特にトスカーナ、アブルッツォ、サルデーニャ、フランスのコルシカ島やプロヴァンスにて信仰の対象とされました。


聖レパラータに関する古代の記述は無く、ギリシア教父の一人であり、歴史家にして聖書注釈家カエサレアのエウセビオスも4世紀の『パレスティナ殉教者列伝』の中で触れていません。
彼女に関する最初の記述はイングランドのキリスト教聖職者・歴史家・教会博士ベーダ・ヴェネラビリス(7〜8世紀)によるものです。彼の書いた「ローマ殉教録 Martirologio Romano」に聖レパラータの殉教した日が10月8日とされているのです。

フィレンツェ大聖堂ファサードのサンタ・レパラータ像
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「受難録 Passio」によると聖レパラータは貴族の血筋の女性で、ローマ皇帝デキウスによる迫害の時代に神に生贄を捧げることを拒否したため、12歳にして様々な拷問を受けて断首されたとされます。

この聖女に関する信仰は中世の時代にヨーロッパで普及しました。伝説によるとレパラータの迫害者は、息絶えた彼女の体を船に乗せて海に流しました。天使によって導かれた船はニースに流れ着きます。そこで彼女は埋葬され、カテドラルSainte-Réparatが建設されたのです。
また船はカンパーニア州に流れ着き、テアーノの街で埋葬され、9世紀に彼女の名前をとった修道院が建設されたという説もあります。

ピサ大聖堂ファサードのモザイク、サンタ・レパラータ部分
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フィレンツェでは、神の助けを嘆願した後に東ゴート族の包囲戦を撃退することができた日が406年10月8日、つまり聖レパラータの日だったのです。そこでフィレンツェの司教ザノービが、大聖堂に聖レパラータの名前を冠したそうです。
そしてフィレンツェのcompatrona(他の守護聖人とともに祀られる守護聖人)になりました。

そういえばピサ共和国も、海軍がサン・シストの日に勝利したことがきっかけとなり、サン・シストを町に守護聖人にした上、験をかついで毎回その日に戦いをしていた記録が残っていますね。
詳しくはこちら→降格されたピサの守護聖人

参照  Informazioni tratte da Santa Reparata Vergine e Martire, Giuseppe Di Filippo, Edigrafital S.p.A., 2001

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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。