葬られた円柱

フィレンツェ市
01 /23 2016
メディチ家のコジモ1世がトスカーナ大公となった折に、その記念としてフィレンツェの街に3本の円柱が建てられることになりました。
◉正義の円柱(サンタ・トリニタ広場)
◉サン・フェリーチェの円柱
◉サン・マルコの円柱


今日は3本目の「サン・マルコの円柱」についてです。
この広場に建てられる予定であった円柱は「平和」のシンボルでした。
1527年に石切り場のセラヴェッツァからフィレンツェに石が到着します。
高さ22ブラッチャ(12,90m)の巨大な円柱はとりあえずサン・マルコ広場に寝かされていました。
そのうちコジモ1世が亡くなり、息子のフランチェスコ1世は指定された場所に円柱を建てることをピエトロ・タッカに命令します。頂上には妻のジョヴァンナ・ダウストリアの像を設置することにします。
像はジャンボローニャによって作業が始められ、その死後、弟子であったピエトロ・タッカにによって完成されます。

円柱を立てる準備が全て揃った時に、寝かされていた円柱は真っ二つに折れてしまいました。
そこで円柱は広場に埋められてしまい、像は「豊穣の像」としてボーボリ庭園のアンフィテアトロを見下ろす丘の上に設置されました。
豊穣

円柱の基台は1661年、コジモ3世の結婚相手ルイーザ・ドレアンズがフィレンツェにやってきた時、祝祭イベントに邪魔であったことから破壊されてしまいました。

1694年に、円柱は地中から掘り起こされます。折れた円柱は復元され、新しい基台の上に聖アントニーノの像とともに立てられることになりました。しかしこの計画は頓挫し、再び広場の中央に円柱は埋められてしまったのです。

その後、再び掘り返された円柱はフィレンツェ美術アカデミー(Accademia di Belle Arti di Firenze)の中庭に設置されることになりました。アカデミーでは円柱を立てるためにコンクールも行われたそうですが、これも結局叶わいませんでした。今もアカデミーが保存しているそうです。

参照 Gianluca Belli, Note sulla conservazione dei monumenti a Firenze tra sette e ottocento

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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。