王冠のような町 モンテリッジョーニ

シエナ県
03 /26 2016
モンテリッジョーニはトスカーナ州はシエナ県の小さな町で人口は9000人ほどです。
海抜200mの低い丘の頂上に位置し、周囲は平野や川が流れる谷に囲まれているため、非常に見晴らしが良くなっています。
モンテリッジョーニ
町を囲む城壁は、以前はカステッロ(城)であり、シエナ共和国長官グエルフォ・ダ・ポルカーリの命令によって1214〜1219年の間に建設されました。その後、貴族のスタッジャによって買収され、ロンゴバルド農場の本部として使用されます。
城壁から塔がそびえ立っているため、王冠のような形をした町と形容されます。

◉カステッロの直径 172m
◉城壁の高さ 2m
◉城壁には15の塔(現在は11の塔を数えることができる)と2つの門が付いている
◉塔の高さは6,5m
◉2005年より城壁の上を歩くことができるようになった
◉門の名前は、フランカ(フィレンツェ向き)とロメーア(シエナ向き)

城が建築された理由は、シエナ共和国の防衛のため、アラ山からフランチジェーナ街道、エルザ谷、スタッジャ谷を見張る目的が主なものでした。これらが敵国フィレンツェからシエナに通じる道だったのです。
シエナはこの時期、クエルチャロッサの城なども購入していて、コンタード(領地)拡大に臨んでいました。

城壁に関した跳ね橋などの記録はなく、厚い二つ城門だけがカステッロへの入り口でした。
しかしカステッロの周りにはカルボナイエ(carbonaie)と呼ばれる石炭を詰めた溝があり、敵襲のさいにはここに点火されるようになっていました。

1244年と1254年 カステッロが築かれた後、この地を争ってフィレンツェとシエナ間に戦争が起きます。

1259年 コッレの戦争(ダンテによって「煉獄」の節に記録されています)にて、敗戦したシエナ軍が籠城しますがあえなくフィレンツェによって占領されます。

1348〜1349年 ペスト流行によって、シエナ人がモンテリッジョーニに避難します。

1400〜1500年 城壁を強化することによって、カルボナイエの必要がなくなります。

1526年 2000人の歩兵と500人の騎士で組織されたフィレンツェ軍によって占領されます。しかしカッモーリア門の戦いでフィレンツェ軍と同盟を組んでいた教皇軍に勝利したシエナ軍がモンテリッジョーニを取り戻します。

1555年 シエナ軍の決定的な敗退。この事件がイタリアにおける「都市国家時代の終わり」と考えられています。

メディチ家のコジモ1世がこの土地を支配し、モンテリッジョーニの市民は奴隷としてフィレンツェに連れて行かれます。

現在のモンテリッジョーニは観光都市となり、フランチジェーナ街道の32番目のアイテナリー(モンテリッジョーニからシエナのカンポ広場まで20、6km)とされています。

参照 MONTERIGGIONI
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。