19世紀美術館

ドゥオーモ地区
06 /21 2016
2015年にリニューアルオープンしたフィレンツェの大聖堂付属美術館。
ウッフィツィについでフィレンツェで最も大きな面積を持った美術館となりました。
新しい展示室、展示物を見ていく第15弾です。

美術館2階の第26室は「il museo dell'Ottocento(1800年代の美術館)」という名前になっています。
実際には第26室は仕切りがあるので 壁に沿って5つの間に分かれています
19世紀に完成されたドゥオーモのファサード関連の展示物が並んでいます。

つまり大聖堂付属美術館は、1階の13世紀ファサードに始まり、2階の19世紀ファサードで終わるという構成になっているのです。

メディチ家によってつくられた仮設のファサード(1688年完成、壁に描かれたもの)は風化が激しくなっていきました。
ナポレオンによってメディチ家後釜のロレーヌ家が一旦フィレンツェから追放され、ナポレオン失脚後に彼らが町に帰還した頃には、新しいファサードを建設しようという機運が高まっていました。ナポレオン支配は1799〜1814年です。

フィオレンツァ(フィレンツェの古名、花に由来する)を彷彿とさせる、ゴシック様式が求められます。
ダンテ時代の自由な共和国フィレンツェをイメージさせようとしました。

ドゥオーモ建築主任となったガエターノ・バッカーニは、1842〜1843年の間にドゥオーモ内部からルネッサンス時代とバロック時代の装飾を取り除き、中世の姿を取り戻させます。
それより以前、1820年にバッカーニとシルヴェストリは新しいファサードの設計図を提案していました。

また町の有力者グループは建築家ニッコロ・マタスにファサードの設計図を依頼します。マタスはサンタクローチェ教会のファサードを設計していました。マタス案は市民には好意的に評価されましたが、他の芸術家からは批判を受けます。

それは町の公けのコンクール外で選ばれたためでした。
洗礼堂の扉のコンクール(1401年)から、公共の建築物の設計を公けのコンクールで選ばれた芸術家が担当することが「共和国フィレンツェ」の伝統だったからです。

1859年にファサードの設計コンクール開催が公布されましたが、そのわずか2週間後にロレーヌ家は国外退去になり、フィレンツェはイタリア王国に合併されます。この時点で「ドゥオーモ・ファサード・アソシエーション」が組織されました。

設計図はまだできていなかったものの、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がファサードの最初の石を設置する式典が行われます。その後、三回目のコンクールでエミリオ・デ・ファブリスの案が採用されました。1867年のことです。

ニッコロ・バラビーノによって描かれた、ファサード右手の扉の上のモザイクのためのデザイン。
mod21
「アルテ(同業者組合)代表者に囲まれた「信仰」の偶像」

アモス・カッシウォーリ作 ファサードの扉の上のモザイクのためのデザイン。
mod23
「フィレンツェ福祉施設の創始者たち」

ジュゼッペ・カッシウォーリ作 ファサードの扉コンクールのための参加作品。
mod22

最後にミュージアムショップに向かう階段途中に「音楽の礼拝堂」があります。
mod26
ガラスケースの中には貴重な細密画を施した楽譜が展示されています。上にある天使と鷲の像は、メディチ家のロレンツォ豪華王の希望によって制作された1476年のもので、洗礼堂に設置されていました。

長らくご紹介してきました、大聖堂付属美術館の説明は今回で終わりです。
また紹介しきれていない作品をいつかご紹介する機会があるかもしれませんね。

参照 Il nuovo museo dell'opera del Duomo , Timothy Verdon, Mandragola, ISBAN978-88-7461-267-3
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。