クーポラのフレスコ画

ドゥオーモ地区
08 /04 2016
フィレンツェ大聖堂のクーポラは15世紀にブルネレスキによって建築されました。
それから1世紀半のち、クーポラの内側がフレスコ画によって装飾されます。
この壮大なフレスコ画についてご紹介していきたいと思います。

大聖堂、サンタ・マリア・フィオーレ教会は内陣が東を向いています。
これは2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌス(ラテン語で著述を行ったいわゆるラテン教父の系統に属する最初の一人)の「キリスト教信者は太陽が昇る方向に向かって祈る」という言葉に依ります。

そこで8角形の天井の内側のフレスコ画の読み方は、東から始まり、時計周りに見ていくのが正しいそうです。
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面積  3600平方メートル
作者  ジョルジョ・ヴァザーリ&フェデリコ・ズッカリ
登場人物700の内訳 天使〜248 人物〜235 偶像〜21 宗教関係者〜102 地獄に落ちた人物〜35 肖像画〜13 怪物〜14 プットー〜23 動物〜12



1568年 メディチ家のコジモ1世の命により、フレスコ画装飾の計画がスタート
ブルネレスキはモザイク装飾を考えていましたが、これは重たすぎるだろうということから、フレスコ画で装飾することになります。宮廷芸術家であったヴァザーリがボルギーニの装飾プランによって進めていきました。
ボルギーニはコジモ1世と次世代のフランチェスコ1世の元で哲学者として活躍した人物で、ヴェッキオ宮殿の500人広間やフランチェスコ1世の書斎の装飾も彼がプランを立てたものです。
クーポラのフレスコ画のテーマはダンテの神曲とサンジョヴァンニ洗礼堂の天井モザイクからインスピレーションを受けています。
またトレント公会議で示された教義を信者に明確に伝えるといった意味合いもありました。

1572年 ヴァザーリがフレスコ画を描き始めます。すでに前年に足場が組まれていました
ヴァザーリは上部(タベルナーコロ部分)と北、北東、南、南東を描きます。

1574年 ヴァザーリ死去
しかしヴァザーリはオペラ・デル・ドゥオーモに残りの4つの部分(地獄の部分を抜かして)のデザインを残していました。ヴァザーリの亡くなる2ヶ月前にコジモ1世も亡くなっていたため、作業は1年ほど停滞します。

フランチェスコ1世はヴァザーリの後継者にフィレンツェの画家ではなく、マルケ地方のフェデリコ・ズッカリを選びます。フィレンツェの美術界では、ヴァザーリの忠実な追随者であったアニョロ・ブロズィーノの弟子、アレッサンドロ・アッローリ(ウッフィツィ美術館の天井画を描きました)が有力な候補と考えられていたのですが…

ズッカリはサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院内の「Sala dell'Appartamento Papale」で大きなカルトーネの準備に取り掛かります。ここはレオナルド・ダ・ヴィンチも使ったことがある場所です。

1576年 フレスコ画の作業が再始動
ズッカリはヴァザーリとボルギーニとともに自分の姿をフレスコ画の中に挿入し「作者が代わったこと」を視覚化します。

1578年 フレスコ画作業終了、仕上げの作業

1579年 フレスコ画公開


しかし外国人の画家が仕上げたことが気に入らなかったのか、フィレンツェの芸術家からの批評は散々で、17世紀にはピエトロ・ダ・コルトーナからも批判されています。
その傾向は現代までも続き、1975〜1981年にはクーポラ内部の「清らかさ」を取り戻すために、フレスコ画を撤去しようという論争まであったそうです。

参照 Gli aggreghi della Cupola di Santa Maria del Fiore, LIBRERIA EDITRICE FIORENTINA
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。