ヴェッキオ宮殿の年表

シニョーリア広場地区
01 /15 2017
フィレンツェのヴェッキオ宮殿は13世紀末に着工され、16世紀まで増築を経て現在の大きさになりました。その歴史は複雑でなかなかつかみにくいものです。簡単な年表にまとめてみました。
vecchio
1299年 着工(ウベルティ家とフォラボスキ家の邸宅があった場所)

1302年 完成 plagio novo(新しい宮殿)と呼ばれる
1342年 アテネ公グアルティエリ・ディ・ブリエンヌがフィレンツェの行政権を握り、宮殿を改築
1343年 アテネ公追放。プリオーリ制の復帰

1416年 ドゥオーモのためにドナテッロが彫った大理石の「ダヴィデ」が「謁見の間」に設置され、共和国のシンボルの一つとなる
1496年 ベネデット・ダ・マイアーノの指揮で「謁見の間」を改築し、新しい3つの部屋を作る→「謁見の間」「百合の間」「オリオーロの間」
1476年 「百合の間」の横にヴェロッキオ作「ダヴィデ」を設置
1482年 「百合の間」ギルランダイオのフレスコ画で装飾
1494年 アントニオ・ダ・サンガッロにより「大議会の間(500人広間)」の建設
1495年 メディチ家宮殿よりドナテッロ作ブロンズ製の「ダヴィデ」「ユディット」移設

1502年 ソデリーニが任期無しの行政長官になり家族と宮殿に住むため改築→のちにコジモ1世の部屋
1503年 レオナルドとミケランジェロが「大議会の間」にフレスコを描くよう依頼される(二人とも未完成)
1504年 宮殿前にミケランジェロの「ダヴィデ」設置
1531年 アレッサンドロ・デ・メディチがフィレンツェ公に
1537年 アレッサンドロの死により、コジモ1世がフィレンツェ公
1540年 コジモ1世がラルガ通りのメディチ邸から宮殿に転居、改築によりエレオノーラの区画などが生まれる
1552〜1555年 レオーネ通りの方角への増築終了
1555年〜 ヴァザーリ指揮による内部の装飾が始まる。カレッジ別荘に置く予定だったヴェロッキオ作「イルカを抱く少年」中庭に設置
1563〜1565年 「500人広間」の天井を7m上に作り直し、天井画で埋める
1563〜1581年 「地図の間」ダンティとボンシニョーリにより世界地図製作
1565年 フランチェスコ1世の花嫁ジョヴァンナのフィレンツェ到着の機会に中庭など漆喰装飾される
1569年 コジモ1世が「トスカーナ大公」の地位を任命される
1570〜1575年 「フランチェスコ1世の書斎」の装飾
1574年 コジモ1世死去、長男のフランチェスコ1世が後を継ぐ
1587年 フランチェスコ1世死去、弟のフェルディナンドが後を継ぐ
1589年 フェルディナンドの婚礼の機会に「500人広間」にジャンボローニャ作「ピサに勝利するフィレンツェ」設置
1592年 フェルディナンドの長男コジモの洗礼の機会に「500人広間」に「ヘラクレスの功業」彫刻群を設置

1737年 ジャンガストーネ死去、宮殿の所有はロレーヌ家に移る
1766年 ピエトロ・レオポルド公が「500人広間」にて大公国に忠誠を誓う

19世紀を通じて宮殿の修復工事が行われます
1865年 フィレンツェが統一されたイタリアの首都となり「500人広間」は国会議事堂に
1873年 ミケランジェロのダヴィデをアカデミア美術館に移設

1910年 バラバラになっていた「フランチェスコの書斎」の絵画作品を元の場所に戻す。ダヴィデのレプリカを宮殿前に設置

外部から見てスタイルの違いなどからはっきり区別できる増築は、紫の文字で書いた部分です。主に4つの段階を経て、広場側から裏の通りの方向へ増築されていきました。

こうして見るとミケランジェロのダヴィデだけではなく、ドナテッロの2体のダヴィデも、ヴェロッキオのダヴィデも一度はヴェッキオ宮殿に展示されていたことがわかります。ダヴィデは、まさにフィレンツェ共和国のシンボルだったんですね。

参照 「Palazzo Vecchio e I Medici」 guida storica di Ettore Allegri e Alessandro Cecchi, studio per edizioni scelte
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。