エトルリアの墓〜1〜

ちょっとかじる歴史の話
05 /07 2017
古代ローマよりもさらに古い時代、イタリア半島中部に栄えたエトルリア文明。
今日はその古墳の時代ごとの変化をまとめました。

エトルリア人はあの世でも現世の生活が続いていくと考えていたので、墓は新しい「家」のようなものでした。
そこで墓の中には服やアクセサリーや日用品などを、食品や飲料と共に用意したのです。
墓の装飾は故人や子孫の階級や経済的豊かさによって違いがあり、さらに地域差や時代によって変化の様子が見られます。
要するにバリエーションに富んだ墓のパターンがあったわけです。
裕福な墓の場合は、壁にフレスコ画で日々の生活や一生の中で意味のある重要な場面を描かせたりしました。

執政官道路の端に墓を建てていった古代ローマ人と違って、エトルリア人は古墳を地下に作るか、地上の墓地であっても土まんじゅうを上に乗せて隠していました。
また場所は普通は町の外のネクロポリスにありました。

Tombe a pozzetto 井戸型 紀元前10〜9世紀
土か岩の中に掘られた井戸の形をしていました。形は円筒形か立方体。深さは墓によって違いますが2mほどの深さのものも見つかっています。遺灰はテッラコッタのUrna biconicaと呼ばれる壺の中に入れてありました。
Urna biconica→葬式用に使われた壺で輪型の取っ手が一つだけついています。もう一つの取っ手は葬式中の儀式で壊されます。表面には幾何学模様によって装飾されているものがあります。蓋には小鉢(女性用)か兜(男性用)が使われていました。
参照 urna biconica

Tombe a tumulo 塚型 紀元前8〜6世紀
平べったい石によって建設された、ドラム型の空間をした墓です。円型に石を積み上げ、上部にいくに従って輪が小さくなる構成でpseudocupola(見せかけのクーポラ)を作ります。石自体の重さによって支えられる構造です。
クーポラは土によって覆われ、その周辺にはクーポラを囲うように石を設置していきます。
古墳の中には遺灰が入った壺を設置するための小さな部屋があります。四角い部屋には廊下(dromos)から入ります。普通はこの廊下は東西に延びるように建設されました。ドロモスは墓の調度品が収められている副次的な部屋にも通じていました。

この墓のバリエーションとして、ドラム型空間から入口の空間(ad avancorpo)が突き出た様式もあります。
エトルリア墓3

Tombe a fossa 掘り型 紀元前8〜5世紀
長方形の場合は土葬用の古墳で、正方形の場合は火葬用の古墳です。
8世紀の頃に井戸型の代わりに火葬した故人の墓として使われ始めました。
岩がなく長方形の空間が作れない場合は、様々な小石や石の板や瓦を使って建築しました。掘の内部にも外部にも葬式用の調度や儀式用道具を設置していきました。

Tombe a cassone 長持ち型 紀元前7〜5世紀
凝灰岩によってできた箱状の墓。とても重たく、蓋は2枚の薄板で構成されるか「ロバの背中 schiena d'asino」と呼ばれる凸状の構造をしていました。
エトルリア墓

Tombe ipogee o a camera 地下あるいは部屋型 紀元前7〜4世紀
エトルリア墓2
大部分が地下に位置する(あるいは半地下)古墳。また岩の中をくりぬいたり、自然の洞窟を利用することもありました。
また断崖の淵を掘って作られたものはtombe rupestri(断崖の墓)と呼ばれます。

古墳には傾斜を持った細い廊下(dromos)から入ります。形はバリエーションがあり、長方形から奥がアーチ型となった長方形、台形、正方形、T字型まで。壁はフレスコ画で、天井は浮き彫りなどで装飾されます。また部屋の中に柱頭を持った円柱が立っているものもあります。

このタイプは紀元前8世紀の終わりからエトルリアのローマ化の時代まで、エトルリア貴族階級の典型的な古墳として使われていました。
紀元前7世紀、このタイプの墓の構造は複雑になり、完全に住居のモジュールを持つようになります。
紀元前5世紀の東方化(orientalizzante)の時代には大きな古墳となり、貴族階級の重要さを示し、墓の調度品も高価なものになっていきます。
このような古墳には夫婦や子供達といった一族の遺灰が一緒に設置されていました。

次回に続きます!

参照 tombe etrusche
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。