フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿の歴史について紹介しています。
メディチ宮殿は本家が途絶えた後、力を伸ばしたメディチ庶民派がヴェッキオ宮殿さらにピッティ宮殿を居住を移したこともあり、本宅としての機能は持たなくなります。メディチのメンバーからメンバーに所有が移るという歴史を辿っていき、フェルディナンド2世の時代(17世紀)に使用されていないこのラルガ通りの宮殿を銀行家のリッカルディ家に売却することを決めます。
ガブリエッロ・リッカルディは大公国において要職にあった政治家でもあり、そのため侯爵の地位を授かっていました。
リッカルディ家の家紋 宮殿の外壁にあります

18世紀までリッカルディ家は宮殿に様々な改築を与えましたが、15世紀の外見はそのまま保存しました(増築した部分もオリジナル部分と違和感がないように真似て建築してあります。しかし宮殿の面積はメディチ家時代の倍となります。メディチ家の時代にはほぼ正方形をしていた平面図は、北の方向に伸びて長方形となりました。
地上階から入ると、アンドレオッティによって石膏のプット(子供の彫像)で装飾されたロッジャに入ります。この石膏はフィレンツェでバロック時代によく多く使われた流行のマテリアルでした。
1階のギャラリーは1685年に完成されます。それほど大きな空間ではないのですが、フィレンツェバロックを代表する空間となっています。鍍金された漆喰の装飾、表面に描かれた鏡、ルカ・ジョルダーノによって描かれた天井画があります。
鏡の表面に描かれた絵と、鏡に映し出された部屋の様子

>>ルカ・ジョルダーノは、バロック後期のイタリア人画家で、ナポリ出身。若い頃はピエトロ・ダ・コルトーナのもとで働いていました。
ジョルダーノは非常に速く絵を描くことができ、「速描きのルカ (Luca, Fa-presto)」という愛称で呼ばれ、他の画家の作品を模倣できる才能から、彼は「雷鳴 (Fulmine)」あるいは絵画の「プローテウス」というあだ名をつけられたりもしました。
ヴェネツィア派とローマ派の融合した絵画スタイルを持っていて、パオロ・ヴェロネーゼの装飾的な優美さ(ヴェネツィア派)と、コルトーナの生き生きとした複雑な画面構成(ローマバロック)を共生させた作風です。フィレンツェでは1682年から1683年にかけて活躍、サンタ・マリア・デル・カルミネ教会 のコルシーニ礼拝堂のフレスコ画、クルスカ学会の天井画、メディチ・リッカルディ宮殿のフレスコ画を残します。
メディチ・リッカルディ家の天井画は理想化して描かれたメディチ家の人々を中心に、その周囲にさまざまな物語に登場する人物や神々などが描かれています。

>>天井画のテーマは
四元徳
精霊を擬人化したもの
ポセイドンとアムピトリーテー
ディオニュソスの凱旋
アドニスの死
ケレースとトリプトレモス

スペイン王カルロス2世によりマドリードに招かれたジョルダーノは、スペイン宮廷でもてはやされ、カルロス2世から「騎士 (caballero)」の称号をもらっています。
カルロス2世が死後、ジョルダーノはナポリに帰国、特に貧しい年少の芸術家たちへの支援のため多額の寄付をしました。「優れた画家とは大衆に好かれる画家のことであり、そして大衆はデザインよりも色彩により惹かれるものである」という色彩重視の言葉を残してます。
リッカルディ家のコレクション(彫像、胸像、浮き彫り、石に刻まれた碑文)は、独創的なバロック時代の額縁の嵌め込まれて中庭に設置されています。

また奥の庭には大きなアーチの下に噴水と大理石の彫像が置かれています。宮殿の改築工事の際に発見された頭のない彫像(おそらくヘラクレスの像)に、フランチェスコ・リッカルディの頭をくっつけた作品になっています。

リッカルディ家の当主がまるでギリシャ神話の英雄のようになっています。
リッカルディ一家はこの宮殿に約2世紀の間、住み続けました。現在の宮殿はフィレンツェ県の会議所になっています。
メディチ宮殿は本家が途絶えた後、力を伸ばしたメディチ庶民派がヴェッキオ宮殿さらにピッティ宮殿を居住を移したこともあり、本宅としての機能は持たなくなります。メディチのメンバーからメンバーに所有が移るという歴史を辿っていき、フェルディナンド2世の時代(17世紀)に使用されていないこのラルガ通りの宮殿を銀行家のリッカルディ家に売却することを決めます。
ガブリエッロ・リッカルディは大公国において要職にあった政治家でもあり、そのため侯爵の地位を授かっていました。
リッカルディ家の家紋 宮殿の外壁にあります

18世紀までリッカルディ家は宮殿に様々な改築を与えましたが、15世紀の外見はそのまま保存しました(増築した部分もオリジナル部分と違和感がないように真似て建築してあります。しかし宮殿の面積はメディチ家時代の倍となります。メディチ家の時代にはほぼ正方形をしていた平面図は、北の方向に伸びて長方形となりました。
地上階から入ると、アンドレオッティによって石膏のプット(子供の彫像)で装飾されたロッジャに入ります。この石膏はフィレンツェでバロック時代によく多く使われた流行のマテリアルでした。
1階のギャラリーは1685年に完成されます。それほど大きな空間ではないのですが、フィレンツェバロックを代表する空間となっています。鍍金された漆喰の装飾、表面に描かれた鏡、ルカ・ジョルダーノによって描かれた天井画があります。
鏡の表面に描かれた絵と、鏡に映し出された部屋の様子

>>ルカ・ジョルダーノは、バロック後期のイタリア人画家で、ナポリ出身。若い頃はピエトロ・ダ・コルトーナのもとで働いていました。
ジョルダーノは非常に速く絵を描くことができ、「速描きのルカ (Luca, Fa-presto)」という愛称で呼ばれ、他の画家の作品を模倣できる才能から、彼は「雷鳴 (Fulmine)」あるいは絵画の「プローテウス」というあだ名をつけられたりもしました。
ヴェネツィア派とローマ派の融合した絵画スタイルを持っていて、パオロ・ヴェロネーゼの装飾的な優美さ(ヴェネツィア派)と、コルトーナの生き生きとした複雑な画面構成(ローマバロック)を共生させた作風です。フィレンツェでは1682年から1683年にかけて活躍、サンタ・マリア・デル・カルミネ教会 のコルシーニ礼拝堂のフレスコ画、クルスカ学会の天井画、メディチ・リッカルディ宮殿のフレスコ画を残します。
メディチ・リッカルディ家の天井画は理想化して描かれたメディチ家の人々を中心に、その周囲にさまざまな物語に登場する人物や神々などが描かれています。

>>天井画のテーマは
四元徳
精霊を擬人化したもの
ポセイドンとアムピトリーテー
ディオニュソスの凱旋
アドニスの死
ケレースとトリプトレモス

スペイン王カルロス2世によりマドリードに招かれたジョルダーノは、スペイン宮廷でもてはやされ、カルロス2世から「騎士 (caballero)」の称号をもらっています。
カルロス2世が死後、ジョルダーノはナポリに帰国、特に貧しい年少の芸術家たちへの支援のため多額の寄付をしました。「優れた画家とは大衆に好かれる画家のことであり、そして大衆はデザインよりも色彩により惹かれるものである」という色彩重視の言葉を残してます。
リッカルディ家のコレクション(彫像、胸像、浮き彫り、石に刻まれた碑文)は、独創的なバロック時代の額縁の嵌め込まれて中庭に設置されています。

また奥の庭には大きなアーチの下に噴水と大理石の彫像が置かれています。宮殿の改築工事の際に発見された頭のない彫像(おそらくヘラクレスの像)に、フランチェスコ・リッカルディの頭をくっつけた作品になっています。

リッカルディ家の当主がまるでギリシャ神話の英雄のようになっています。
リッカルディ一家はこの宮殿に約2世紀の間、住み続けました。現在の宮殿はフィレンツェ県の会議所になっています。


うみ : 2012/03/03 (土) 05:39:33 修正
反宗教革命からのバロックの飛躍は凄いものがあるよね〜
Re: タイトルなし 伊藤裕紀子 : 2012/03/03 (土) 06:20:29 修正
>反宗教革命からのバロックの飛躍は凄いものがあるよね〜
確かに正反対の方向に行ってるもんね。