ミラノ風カツレツは外国支配の産物?

ミラノ
09 /27 2012
ミラノは130万人の人口を持つ、イタリア第2の都市です。一番人口の多いローマが政治の中心であるなら、ミラノは経済の中心ということが出来るでしょう。商業、工業、金融の中心であるからです。
緯度としては日本の北端である稚内とほぼ同じ。イタリア自体が日本よりちょっと北にある国なのです。
ミラノ
ミラノの古代の名前はメディオラヌム。紀元前600年のケルト人の時代から、前222年からのローマ征服時代にも「平原の真中」の意味であるMediolanumの名前で呼ばれていました。
ケルト人とは中央アジア草原から馬と戦車、馬車を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族の民族で、紀元前400年頃には中部ヨーロッパに広がっていました。

ローマ帝国のもとで繁栄して、4世紀の司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代には西ローマ帝国の首都であった時代もあります。アンブロシウスは民衆を虐殺したテオドシウスに公開謝罪を要求して、これを得るなどキリスト教の中でかなり重要な人物です。
5世紀にアッティラ指揮のフン族、6世紀にはゴート族の侵略にさらされましたが、8世紀末ごろに再び繁栄がはじまります。

アンブロシウスの時代から中世にわたって、大司教が大きな権力を持ち続けましたが、封建貴族たちは次第に大司教の支配から脱していきます。東ゴート王国→東ローマ(ピザンチン)帝国→ランゴバルド王国→神聖ローマ帝国の時代を経て、11世紀には貴族たちが自治都市へと変化させます。

12世紀、ミラノは神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世の軍隊に破壊されましたが、すぐにロンバルディア同盟を結成して抗戦。今度はフリードリヒ1世を打ち破ります。この勝利からミラノは繁栄の時代を迎えます。

13世紀~15世紀
ミラノの統治権をデラ・トッレ家からヴィスコンティ家が奪い、ミラノを統治します。1395年には当主ジャン・ガレアッツォが神聖ローマ皇帝からミラノ公の称号を得て、ミラノ公国となります。

1450年 ヴィスコンティ家に傭兵隊長として仕えていたフランチェスコ・スフォルツァが主家の娘と結婚してミラノ公になります。その息子ルドビーコ(色黒だったのでイル・モーロ~ムーア人~と呼ばれました)はレオナルド・ダ・ビンチをミラノに迎えたことで知られます。

1500年 フランス軍がミラノを占領。このときレオナルドもミラノを去りますが、のちに戻ってきます。結局レオナルドは合わせて約二十数年ミラノに滞在し、この地方の芸術に大きな影響を与えました。

1535年 スペインの統治下へ。

1714年 スペイン継承戦争後オーストリア・ハプスブルク家に帰属。

1796年 ナポレオンがオーストリア人を追い出し、ミラノをチザルピーナ共和国の首都とします。

1815年 再びオーストリア支配
こうしてスペイン→オーストリア→フランス→オーストリアと外国支配に300年以上も置かれたミラノでしたが、19世紀のイタリア独立運動によって、ようやくその軛から解放されます。

ミラノでよく食べる「ミラノ風カツレツ」という料理がありますが、これはハプスブルク支配の間にオーストリアからもたらされたメニューだとか、いや反対にミラノの料理がオーストリアに伝わったのだとか、今でも論争になっています。
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伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。