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羅針盤
01 /01 2019
当ブログでは、フィレンツェ在住の日本人ガイドがフィレンツェを中心としたイタリアの情報を書いています。
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羅針盤2

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7つの教会 ピラトの中庭

エミリアロマーニャ州
04 /22 2018
ボローニャの「サント・ステファノ聖堂」またの名前を「7つの教会群」を紹介する第3弾です。
第1弾→「7つの教会 キリストの身長と同じ高さの円柱」
第2弾→「7つの教会 娼婦が訪れる聖墳墓」

【ピラトの中庭】
聖墳墓の教会から出た場所にある中庭で、イエスの処刑が決定された場所(lithostrotos)に因んでこの名前になっています。庭の北部と南部はロマネスク様式の柱廊になっていて、円柱はレンガを使った十字架型です。
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中央には大きな水盤があり「Catino di Pilato ピラトのタライ」と呼ばれています。ランゴバルド時代8世紀の作品です。ピラトがイエスの処刑を群衆の意思に任せ、自らの手を洗って自分の責任では無いことを表明したエピソードを呼び覚まします。

柱廊の中心、円柱の上に石製の雄鶏がいますが14世紀の作品で「聖ピエトロの雄鶏」とよばれます。イエス捕縛後にピエトロが彼との関係を否定すると雄鶏が鳴いたというエピソードを表現しています。
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【トリニタ教会】
「サンタ・クローチェ教会」「カルヴァーリオ教会」「Martyrium」とも呼ばれます。
五身廊式でファサードが東を向くという、コンスタンティノヌス帝が建てたサント・セポルクロ教会のオリジナルの姿に近い教会を建てようとしましたが、おそらく資金が足りなかったため、ペトローニオ司教は教会を未完のまま残しました。
ランゴバルド族の時代には洗礼堂として使用されます。
11世紀、ベネディクト会により修復されますが、オリジナルの姿がよくわかっていなかったために、修復も中途半端なものでした。
教会に入って右の礼拝堂に木製「東方三博士の礼拝」の彫像グループがあり、世界最古のプレセーピオとされています。13世紀末に「磔刑像の師匠(Maestro del Crocefisso)」と呼ばれる芸術家によって彫られたと考えられます。
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木像グループはボローニャの画家シモーネ・デイ・クロチフィッソによって彩色されています。
多くの修復を経たのち、現在は湿度と温度がコントロールされている展示用のケースの中に設置されています。

13世紀のフレスコ画「妊婦の聖母マリア」もあり、マリア様が愛情深い仕草でお腹を撫でている様子が表現されています。

「ピラトの中庭」よりも大きな面積の中庭は2階建ての柱廊によって囲まれた空間です。
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下の階は1000年よりも以前に建設されています。上階は12世紀中頃の建築。
柱頭の彫りに「大きな石に押しつぶされる男」「首が180度後ろを向いている男」など面白いモチーフが見られます。
これはダンテ作「神曲」の煉獄の様子からインスピレーションを得たものです。
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【サント・ステファノ美術館】
象牙製の司教杖などキリスト教関連のオブジェクト、7つの教会から運ばれた作品が展示されています。
ランゴバルド族時代の高浮彫パネル「イエスと聖ヴィターレ、聖アグリーコラ」マリア様の飾り帯、絵画作品や聖遺物箱など。

7つの教会 娼婦が訪れる聖墳墓

エミリアロマーニャ州
04 /21 2018
ボローニャの「サント・ステファノ聖堂」またの名前を「7つの教会群」を紹介する第2弾です。
第1弾はこちら→「7つの教会 キリストの身長と同じ高さの円柱」

【聖墳墓の教会】
司教ペトローニオによって5世紀に建てられた教会で、エルサレムの「聖墳墓教会」の模倣。
並ぶ教会正面、右が聖墳墓教会
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10世紀のハンガリー軍によってもたらされた破壊後、11世紀にベネディクト会によって再建されました。
平面図は集中式。8角形をしていて中央上部に12角形のクーポラを持ちます。
12本の円柱に囲まれた中心部には小神殿があり、聖ペトローニオの聖遺物が保管されていました(この場所で1141年に発見されました)
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聖墳墓の扉は年に1週間だけ、復活祭の夜中のミサの後に開かれます。この儀式は聖墳墓の騎士の前で行われます。

以前は、マグダラのマリアを偲ぶため、復活祭の朝に娼婦たちが聖墳墓の中を訪れる習慣があったとか。
またボローニャの妊婦たちは聖墳墓を33周し(キリストは33歳の時に亡くなった)、1周ごとに聖墳墓に入って祈りをあげました。最後にMartyrium教会に入り、「妊娠した聖母」のフレスコ画の前で帰投するという習慣がありました。

サン・ペトローニオの遺体は2000年に、町の中心のサン・ペトローニオ教会に移設されています。それまでサン・ペトローニオ教会には聖人の頭だけが保存されてたのですが、この時に体も同じ場所に移されたことになります。

教会内には噴水がありますが、これはヨルダン川のシンボル化したもので、この場所に教会建設前にイシスの神殿があったと考えられます。なぜならエジプトの女神イシスの神殿には噴水があることが普通だったからです。
7本の大理石の円柱は古代ローマの時代にギリシャから運ばれたものを再利用してあります。
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円柱のうち1本は黒色としていますがやはりローマ帝国時代にアフリカから運ばれたもので、キリストが鞭打たれた時に繋がれた円柱のシンボルとなります。

壁には13世紀にマルコ・ベルリンギエリ作のフレスコ画がありましたが、19世紀はじめにフィリッポ・ペドリーニのフレスコ画に換えられました。この作品は19世紀に終わりに剥がされて、下にあった13世紀のフレスコ画も現在は聖堂付属美術館に展示されています。

【聖ヴィターレと聖アグリーコラ教会】
7つの教会の中で最も古い部分です。翼廊を持たないバジリカ平面図を持ちます。後陣は3つの壁龕(トリコンカ triconca)型、初期(ディオクレティアヌス帝時代)殉教者のヴィターレとアグリーコラに捧げられています。建設当初から2人の聖遺物を保存していましたが、聖遺物は4世紀終わりに聖アンブロージョによりミラノに移されました。
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15世紀に初期キリスト教時代の墳墓が見つかり「シモン」と書かれていたことから、聖ピエトロの墓であるという噂が広まりました。確証はなかったものの、多くの巡礼者が訪れるようになります。
ローマに向かわずこの教会を訪れる信者も多かったため、これに怒った法王が教会の屋根を解体させ内部に土を入れ70年間もそのまま放置しました。
その後、ローヴェレ家の大司教の仲裁があり、教会は修復されます。

内部には古代ローマ時代の床モザイクがあり、ガラスを通して鑑賞可能です。
3つの後陣のうち、左右の後陣には2つの棺があり、ヴィターレとアグリーコラのために制作された中世初期の作品です浅浮彫のライオン、鹿、孔雀の模様が見えます。

右身廊にある十字架は伝説によると聖アグリーコラの磔刑に使われたとされていましたが、実際はもっとあとの時代のものと判明しています。

主祭壇はもともと異教の神殿で使用されていた物を裏向きに設置しています。奥の壁にぴったりくっつけて設置してあるのは、公会議以前に司祭が信者に背中を向けてミサを行っていた時代の様式です。

参照 La basilica di Santo Stefano a Bologna: storia, arte e cultura, Bologna: Gli inchiostri associati, 1997

7つの教会 キリストの身長と同じ高さの円柱

エミリアロマーニャ州
04 /20 2018
ボローニャのサント・ステファノ聖堂はまたの名前を「il complesso delle Sette Chiese 7つの教会群」と言います。
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初期キリスト教様式、ロマネスク様式、ゴッシク様式の教会がまとまって建っています。

5世紀のボローニャの司教ペトローニオによって創建されたとされ、エルサレムにあるキリストの聖墳墓(サント・セポルクロ)を模倣しました。この場所には以前はイシス(古代エジプトの豊穣の女神)の神殿があったと考えられています。

教会全体の平面図がこちら
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7つの教会のうち
聖なる磔刑の十字架教会(chiesa di Santo Crocefisso)は7世紀(1)-(3)
聖墳墓教会(chiesa del Santo Sepolcro)は5世紀の建築です。祭壇の上にある聖像安置室は、聖ペトローニオの墓があったそうです(4)
聖ヴィターレと聖アグリーコラ教会(chiesa dei Santi Vitale ed Agricola)は4世紀に遡ることができ、2人の殉教者の棺が保管されています(5)

「7つの教会」は10世紀にハンガリー軍の侵略により被害を受けます。そのため11世紀に大部分がベネディクト修道会によって再建されました。
1880年の頃に多くの修復が行われ、20世紀はじめには無駄な増築部分と取り除く工事がありました。

特に「ピラトの中庭」(8)は一辺が4つのアーチを持っていたのですが、庭の面積が拡張されアーチが増やされ、トリニタ教会(またの名前をMartyrium)のファサードを後ろに押し下げることになりました。これは十字軍によって再建された聖墳墓教会の現在の姿を真似るための改築でしたが、4世紀にコンスタンティヌス帝によって建設されたオリジナルの聖墳墓教会を真似たのが元の聖ステファノ教会だったのです。

サン・ステファノ広場からは3つの教会(十字架教会、聖墳墓教会、聖ヴィターレと聖アグリーコラ教会)のファサードが見られます。
3つの教会は様式が違い、また数々の改築を経ているのですが、今も一体感があります。ボローニャの町でも最も興味深いロマネスク様式の建築です。

聖堂の外部には2つの棺が設置されていますが、ボローニャの初期の司教たちの遺体が入っていたものです。1994年に広場の石畳の工事が行われた時に十字架教会の側面に設置されました。

【聖なる磔刑の十字架教会】
オリジナルの建築はランゴバルト族時代(8世紀)のもので、単廊式でトラス天井、内陣は地下祭室の上にあります。
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身廊左には18世紀の「死せるキリストへの哀悼」(アンジェロ・ガブリエッロ・ピオ作)の彫刻グループがあります。
17世紀に改築された内陣へ階段で上がると、14世紀の磔刑像(シモーネ・デル・クロチフィッスィ作)があります。
フレスコ画は「聖ステファノの殉教」

地下祭室は円柱によって分けられた五身廊。伝説によると円柱のうち1本はキリストの身長と全く同じ高さ(1,70m)とされています。当時としてはキリストは高身長だったのですね。
祭壇の上には2つの骨壷があり、それぞれ聖ヴィターレと聖アグリーコラの骨を保管してあります。
祭壇の横には15世紀のフレスコ画「ヴィターレとアグリーコラの殉教」
左身廊の奥の祭壇には小さなフレスコ画の「雪の聖母」(15世紀はじめ リッポ・ディ・ダルマージオ作)

次回に続きます!

参照 La basilica di Santo Stefano a Bologna: storia, arte e cultura, Bologna: Gli inchiostri associati, 1997.

中世の大学

ちょっとかじる歴史の話
04 /19 2018
中世の大学は12世紀初めに形成され、13世紀にかけて数が増えて行きました。
ただしヨーロッパ最古の大学とされるボローニャ大学は11世紀(1088年)創立です。
教会や修道院の学校、つまり神学校から授かった教育方法のモデルの発展した形です。
その開花は12世紀ルネッサンスの動きに伴った、著しい文化的・社会的現象でした。

【12世紀ルネッサンス】
ルネッサンス(再生)とは、14世紀頃イタリアでルネサンスの文化運動が始まり、やがて周辺国に影響を及ぼしたことを指します。それ以前の中世は暗黒時代とされました。
「12世紀ルネッサンス」ではヨーロッパ中世の12世紀にも、古典文化の復興と、文化の高揚が見られると考えます。古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、哲学・美術・文学などの分野で新しい動きがみられます。こうして中世とルネッサンスは断絶しているのではなく、連続していると強調する考え方です。

修道院の本拠地や司教のお膝元で学校が創立され入学希望者が増えます。ボローニャやパリでは生徒と教授が学問所創立のために手を組み「università」と呼ばれるようになりました。

【università】
ラテン語の「universitas」由来。共同体、組合、連合の意味

13世紀にヨーロッパで名門とされた大学は
サレルノ、パドヴァ→医学
ボローニャ→法学
パリ、オックスフォード→神学と哲学

オックスフォードの法学部だけは民法と教会法の両方の学科がありました。
これらの大学がそれまでの教会の学校と違っていたのは、教授が生徒の力を借りて自由にプログラムを作ることが出来、実用的なテキストを自分たちで作っていたことです。

14世紀にはヨーロッパに少なくとも20の大学が存在し
イタリア 10(ボローニャ、パルマ、モデナ、ヴィチェンツァ、アレッツォ、パドヴァ、ナポリ、ヴェルチェッリ、シエナ、ローマ)
フランス 5(パリ、モンペリエ、トゥールーズ、オルレアン、アンジェ)
イギリス 2(オックスフォード、ケンブリッジ)
スペイン 2(サラマンカ、バリャドリッド)
ポルトガル 1(リスボン)

ちなみに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では425年にテオドシウス2世がコスタンティノープル大学を開設し、15世紀まで運営されていました。同時代にアンティオキア、アレクサンドリアでも類似教育機関が存在していました。


ところで哲学科は中世の時代にはLa Facoltà delle Artiと呼ばれていました。arteというとアート?美術?と思ってしまいます。
他の学科(医学、神学、法学)に比べると哲学科は下の位に考えられていましたが、学生の数は最も多かったのです。なぜならまず哲学を学んでから他の学部に進むことが出来たからなんですね。今でいう一般共通科目ということでしょうか?
哲学を卒業するとbaccelliere(13世紀以後の大学の学士号の1つで、「laurea大学卒業資格」前段階の資格取得者)と考えられ、Magister artiumと呼ばれました。そして医学ぶなどを卒業するとdottoreと呼ばれたのです。

なぜ哲学部をarteと呼んだかというと、sette Arti liberali(7つの自由学芸)からきているのです。

【自由学芸 リベラル・アーツ】
古代ローマにおいて、技術は「機械的技術 artes mechanicae」と、「自由の諸技術 artes liberales)とに区別されていました。
この言葉の使用は古代ギリシアにまでさかのぼり、プラトンが哲学的問答を学ぶための準備として、算術、幾何学、天文学が必要と説きました。これらは自由な意思に基づいて勉学される「数学的諸学科の自由な学習」と考えられました。
そしてローマ時代の末期に、7つの科目からなる「自由七科」として正式に定義されます。
自由七科
言語にかかわる3科目の「三学」(トリウィウム、trivium)文法・修辞学・弁証法(論理学)
数学に関わる4科目の「四科」(クワードリウィウム、quadrivium)算術・幾何・天文・音楽

フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会「スペイン人の礼拝堂」に書かれた「7つの自由学芸」
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哲学はこの自由七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられていました。
Herrad von Landsbergの百科事典より、哲学を中心にした自由七科
自由学芸2

また哲学は神学の予備学として、論理的思考を教えるものとされます。

参照 Università nel Medioevo

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住25年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。