Ferragosto アウグストゥスの休息

イタリアのトリビア
08 /12 2017
8月15日、イタリアでは「Ferragosto フェッラゴスト」という祝日にあたります。
「聖母の被昇天」の祝日でもあるフェッラゴスト、この言葉にはどのような意味があるのでしょうか?

フェッラゴストの伝統は古代ローマから続くもの。
Feriae Augusti(アウグストゥスの休息)という言葉に由来しています。

古代ローマでは8月にすでに
Vinalia rustica
Nemoralia
Consualia
などの祝日が存在し、休息と祭りの時期とされていました。
特にConsualiaは、大地と豊穣の神Consoに捧げられた祭りです。
古代のフェッラゴストはこれらの祝日をつなぎ休息のシーズンを形成していたのです。またアウグストゥス帝の名前をつけることによって政治的な意味合いも持っていました。

この祭りの時期に馬やロバといった動物のレースが行われていましたが、これが今日まで「被昇天のパーリオ」として受け継がれ各地で開催されています、有名どころでは「シエナのパーリオ」というカンポ広場の競馬がありますね。

フェッラゴストは古代には8月1日に祝われていましたが、カトリック教会により「聖母被昇天」の祝日に合わせるために8月15日に移動させられました。

2017年のフェッラゴスト、フィレンツェではウッフィツィ美術館やアカデミア美術館、ボーボリ庭園が開館してくれるそうです。
良い祝日をお過ごしください(^-^)/
Buone ferie e...BUON FERRAGOSTO!!

ワイン樽の歴史

ちょっとかじる歴史の話
08 /11 2017
お客様からいただいたこの質問
「昔はワインも壺に入れて保存していたんですよね?樽を使うようになったのはいつからでしょう?」
調べてみました( ̄^ ̄)ゞ

古代に、ワインは石やテッラコッタでできた桶で作り、アンフォラに入れて運んでいました。
アンフォラは紀元前15世紀ごろレバノン〜シリアあたりから広まり、7世紀まで地中海地方で使用されていました。
アンフォラは尖った底をもち、柔らかい地面に縦に突き立てて安定させていました。また船で輸送するときには、船倉に砂を引きそこに横たえていました。しかし陸の運搬にはあまり向いていなかったそうです。

木の樽はケルト人の発明です。最初は運搬用で、サイズも比較的小さいものでした。
鉄の「たが」のおかげで次第に大きなサイズの樽が作られるようになり、ワインの製造と保管に使われます。

キャンティクラッシコ用の樽
キャンティ樽
3世紀、ガリア人(ケルト人の中でガリア地域に居住)と古代ローマが接触し、ローマ人も木の樽を使うようになります。

ヨーロッパにて木の樽で生産したワインが優れているとされるようになったのは19世紀からです。
それまではワインの質に大きな影響を与えるとは考えられていなかったので、樹木の種類もまちまちでした。
ガラスの容器に入れて保存したワインと違うぞとわかり、また樽の大きさもワインの質に関係することが意識されるようになります。

現在はbarrique(225〜228リットル)が世界でもっとも普及している樽で、一方、大きなサイズの樽(もっとも普及しているのは20〜50ヘクトリットル)はイタリアの伝統として残っています。
barriqueが並んでいる様子
バッリク
樽用に使われる木材はフランスの森の樫が有名ですが、イタリアの大きな樽にはスロヴェニアの樫が普及しています。

参照 la storia delle botti in legno per il vino

フィエーゾレの修道院ホテル

フィレンツェ市
08 /10 2017
前回の日記で紹介した「修道院ホテル Villa San Michele」の内部の様子です。

こちらはなんとホテルのレセプション、教会内部を再利用。主祭壇が目の前にあって斬新です。
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横には祭壇がずらり。なぜかフィレンツェの街中の落書き(水道メーターの蓋などに有名な肖像画が水中マスクをつけている様子で描かれています)が再現されていて…これ誰の趣味…?
ピエロ・デッラ・フランチェスカの「ウルビーノ公の肖像画」のパロディーです。
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ウルビーノ公の奥さんも対で。
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大きなテラスにレストランがあります。8月初めは40度近くあったので、丘の上とはいえ暑かった!
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でもパノラマはこんなに綺麗です。ドゥオーモも見えます。
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居間に「最後の晩餐」のフレスコ画があります。ここはもともと修道院の食堂だったのかな?
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ホテルの人に聞いたらニコデモ・フェルッチの作品とのこと。フィエーゾレ大聖堂の中にも彼のフレスコ画があります。

修道院の中庭がいくつかあります。中庭には天窓がありますが、冷房ついていてもやはり暑い!
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こんなホテルでゆっくり過ごしたいものです…
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修道院ホテル Villa San Michele

フィレンツェ市
08 /05 2017
フィレンツェの北、フィエーゾレのちょっと手前にある昔の修道院を利用したホテルがVilla San Micheleです。
見晴らしのいい丘の中腹に位置しています。
サンミケーレ
ホテルがある場所は「ドッチャ」と呼ばれます。
ドッチャは一般的にはシャワーという意味ですが、トスカーナでは「岩清水」のこともドッチャと呼びます。
セスト・フィオレンティーノにも同名の場所があるのですが、フィエーゾレのドッチャはホテルのすぐ下にアッフリコ泉があったため、この名前がついています。

建築は1413年に遡り、ニッコロ・ダヴァンツァーティが資金を出しました。
ダヴァンツァーティは修道院をスカリーノのフランチェスコ修道会に寄付し、その後、大天使ミカエルに捧げた教会も寄付金によって建設することができました。
しかし修道僧が殺人事件を起こしたため彼らは追放され、代わりにMinori Osservanti(厳修会)に所有が移されます。彼らはフランチェスコ修道会の中でも、特に聖フランチェスコの教えを厳格に遵守するグループで、1486年から1808年までこの修道院に住み続けました。

最初は祈祷所に6人の寝所が付いている小さな建築でしたが、現在の姿は1599〜1600年にサンティ・ディ・ティートがミケランジェロのデザインを元に建設したものです。

1808年に修道院が廃止された後は所有者が次々に変わり、クッコリ・フィアスキという人物が別荘に改築します。

第2次大戦後は所有者が別荘のメンテナンス代を工面するためには、ホテルするしかないと考え、改築を経て1952年から開業しています。

レストランはパノラマが見えるロッジャにあり、泊まらなくてもレストランで食事だけをすることも可能です。
雰囲気バッチリの優雅なレストランで楽しむ食事。ロッジャからパノラマが望める暑い季節がお勧めです。

参照 Ines Romitti e Mariella Zoppi, Guida ai giardini di Fiesole, Alinea Editrice, Firenze 2000 ISBN 88-8125-418-2

アレッツォの歴史

アレッツォ県
08 /04 2017
トスカーナ州のアレッツォ(アレッツォ市人口1万人弱)の町の歴史についてまとめました。
ペトラルカやジョルジョ・ヴァザーリの生地でもあります。
アレッツォ

起源
アレッツォの町の起源はよくわかっていませんが、紀元前1000年ごろにはウンブリア人が住んでおり、すでにこの時代からアレッツォの名前で呼ばれていました。

エトルリア時代
放牧の季節によって過疎地帯になっていたアレッツォが「町」の体裁を整えたのがエトルリア時代です。
紀元前5世紀 エトルリア人によって最初の市壁が築かれました。エトルリア人の主要都市ルクモニアの一つとなります。
紀元前4世紀 市壁が作り直され、町はそれまでの倍の面積を持つようになります。また勢力を伸ばしてきたローマとの間に戦いが起こります。鉱物資源に富んでいたアレッツォは金属の加工品やブッケロ陶器にによって豊かになります。
紀元前4〜3世紀 もっとも広い支配地域を所有しますが、同時に衰退が始まります。

古代ローマ時代
紀元前396年 古代ローマがヴェイオを征服、続いてチェーレやタルクイニアを征服し、エトルリア都市が全体的に衰退します。支配された都市にはローマ市民権が与えられ、ローマ化していきます。
紀元前4世紀 アレッツォ、ペルージャ、キウージの都市連合はローマと戦いましたが成果は得られず。
紀元前3世紀 イタリア半島中で大きな都市であり続けますが、ローマの支配やガリア人の侵略を受けます。この時代はエトルリア人のローマ化が完成する時期にあたります。
紀元前205年 カルタゴ軍とローマ軍の戦いであるポエニ戦争にて、アレッツォ近郊のトラズィメーノ湖では両軍の大きな衝突がありました。この戦争でローマ側に大量の穀物、武具といった軍需物資を供給するなど、ローマでも重要な地位を占めていたことがわかります。

キリスト教文明
3世紀 アレッツォの地域ではキリスト教化が進みます。
250年 アレッツォに同地域の司教座が置かれます。

ランゴバルド時代
575年 ランゴバルド族がトスカーナ地方に侵入、アレッツォの人民はもっと安全なサン・ドナートの丘に避難し、そこに7世紀まで留まります。
774年 ランゴバルド族に代わり、フランク族(カール大帝)によって治められます。

司教から伯爵へ
フランク族の支配下に置かれたアレッツォでは司教の影響力が増していきます。
11世紀 司教が町の最強権力を握り、vescovo-conte(司教伯爵)という地位が生まれます。

自治都市(コムーネ)
司教の力が衰え、アレッツォの支配体制が変わります。最高権力は全市民による総体会議が握ります。町に代々住んできた市民が参加する国会のようなものです。また他のコムーネと同じようにグエルフィ派とギベッリーニ派に分裂します。
1215年 大学が創設されます。

1289年 カンパルディーノの戦い。ギベッリーニ(アレッツォ)対グエルフィ(フィレンツェとシエナ)
グエルフィ派が勝利するものの、アレッツォの町からギベッリーニを追放することはできず、かえってフィレンツェ軍への憎悪から町ではグエルフィ派が優勢を保ちます。

フィレンツェ支配
1337年 ペルージャとの戦いに苦戦したアレッツォの有力家族はフィレンツェにお金を払い、一時期の平和を得ます。
1384年 フィレンツェ軍はナポリ王位の争いに乗じて、アレッツォを支配。

メディチ時代
14世紀からメディチ支配時代が始まるまでアレッツォの人口は増える傾向にあったのが、メディチ時代には人口は減少に向かいます。他の都市ピサ、ピストイア、フィレンツェでは同時期に人口は増えていきました。
メディチ家の当主コジモ1世はアレッツォの町並みを大幅に作り変え、サンガッロ要塞を建設します。
コジモの息子のフェルディナンド1世が唯一、この地方の開拓にお金を使ったメディチ家のトスカーナ大公でした。

ロレーヌ時代
メディチ家最後の大公ジャンガストーネの統治はアレッツォに混乱をもたらしただけでした。
それに比べれば跡を継いだロレーヌ家の支配は明確に優れていて、特にピエトロ・レオポルドは交通網の整備などを行いました。その息子のフェルディナンド3世も父親の政策を継続していきます。

1799年 ナポレオンの軍隊がアレッツォに到着。町の抵抗も虚しくその支配下に入ります。
1800年 一時期フランス軍を追い払いましたが、再びナポレオン軍によって略奪が行われます。
1814年 ウィーン会議によりトスカーナ大公にはロレーヌ家が復帰。道路や橋の整備が行われアレッツォの町は復興しました。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。