ケッパーの和名は「風蝶木」

イタリアのトリビア
06 /22 2017
今年もケッパーの花がピサの城壁に咲いていました。
capperi
ピサの斜塔がある大聖堂広場を囲む壁は、ピサ共和国を守るために建設されたものです。
市壁に作られたアーチが広場への入り口になっていて、観光グループの集合場所として使われています。

6月始めにこの城壁を見上げたら、蔦型の植物にお花がいっぱい咲いています。
地中海地方起源の植物ケッパーは地中海沿岸、イラン、アフガニスタンなどで、3月から8月まで開花するそうです。

和名は「棘風蝶木」あるいは「西洋風蝶木」
花の咲いた様子が、風に舞う蝶のイメージなのでしょうか?

つぼみを開花よりもかなり早く収穫して、酢漬けや塩漬けにし、魚や肉、パスタ料理に使います。
果実は多くは取れないのでつぼみより貴重なものですが、やはり酢漬け、塩漬けにして魚料理に使用。

イタリアでは時にシチリア島で収穫されます。

ケルセチン(フラボノイドの一種)を含有していて、抗酸化作用、抗炎症作用、抗動脈硬化作用、脳血管疾患の予防、抗腫瘍効果、降圧作用、強い血管弛緩作用があるとか。
痛風にも効果があることが知られています。

ピサの城壁のケッパーはちょっと高いところに生えているので、収穫は難しそうです(´・_・`)

参照 Capparis spinosa

「牛の心臓」という名のトマト

イタリアで食道楽
06 /21 2017
前回の日記で「ピサネッロのトマト pomodoro pisanello」という、トスカーナ州のピサ県とリヴォルノ県で栽培されているトマトを紹介しました。

これによく似た形をしたトマトで、北から南の州(ピエモンテ、リグーリア、トスカーナ、アブルッツォ、サルデーニャ、シチーリア)で栽培されているトマトがあります。

ピサネッロによく似ているのですが、もっと丸い盛り上がった形をしています。
その名も「牛の心臓 cuore di bue」です。
牛の心臓
形はいびつで皮が薄く、サラダ用に使うトマトです。

皮がとても薄いので全て手摘みされるそうです。

呼び方は地方によって違い、アブルッツォ州では「アブルッツォの洋梨」と呼ばれるんだとか…
確かに洋梨の形にも似ていますね!

バリエーションに満ちたトマトが積み上げられているイタリアの八百屋さんで探してみてください。

ピサのトマト

イタリアで食道楽
06 /19 2017
ピサネッロといえば、15世紀のイタリア人芸術家の名前です。
国際ゴシック様式の代表的な画家であり、肖像入り記念メダルの作家としても著名です。
本名はアントニオ・ディ・プッチョ・ピサーノ。ピサーノという苗字からピサ出身であることがわかります。

この芸術家と同じ名前を持ったトマトがあります。
pomodoro pisanello
pisanello
イタリアの八百屋やスーパーに行くと様々な種類のトマトが並んでいますが、その中でもとても変わった形をしています。
生産地方はトスカーナ州ピサ県とリヴォルノ県。
身は硬く、水分は少なく、強い香りがします。
フィレンツェのトマトcostituto fiorentinoによく似ているのですが、ピサのトマトの方が押しつぶした形なんだそうです。

ブルスケッタを作るときに適したトマトだということですよ。
ブルスケッタはパンを切って、軽くトーストし、その上に具をのせたアンティパストです。
トマトのみじん切りや、キノコ、鳥のレバーペーストをのせたものが一般的です。

水分が多いとパンがボロボロになってしまうので、水分の少ないこのピサのトマトが向いているのでしょう。

法王から聖務禁止を食らったピサ共和国

ピサ県
06 /18 2017
有名な斜塔があるピサの大聖堂広場、その南側を閉じるような形で建っているがシノピア美術館です。
ここには同じ広場にあるカンポサントの壁から剥がされたシノピア(フレスコ画の下絵)が展示されています。
シノピア美術館1
この東西に延びる大きな建築はもともと病院でした。その建築には中世のピサの歴史が絡んでいます…

1220年 この頃からトスカーナ地方の自治都市間の戦いが始まります。
1222年 「ボスコロ城の戦い(ピサVS.ルッカ〜フィレンツェ連合軍)」は、トスカーナで起こった最初の都市間の大きな戦争でした。ここでピサは敗退します。

都市国家は、それぞれギベッリーニ派(神聖ローマ皇帝派)とグエルフィ派(教皇派)に組し、戦いを行います。また都市国家内にもギベッリーニ派の有力市民とグエルフィ派の有力市民がいて、内部抗争を起こします。中世を通じてイタリア中部でこのような紛争が繰り返されました。そしてピサ共和国は神聖ローマ帝国に強く結びついていました。

13世紀半ばの神聖ローマ帝国皇帝はフェデリコ2世(フリードリヒ2世)そしてローマ法王はグレゴーリオ9世(グレゴリウス9世)でした。

1240〜1250年 フェデリコ2世はトスカーナ都市を支配下に置き、町の自治を許しませんでした。ピサのポデスタ(執政長官)も皇帝から直接に選ばれました。

1241年 グレゴーリオ9世はフェデリコに対抗するため、ローマで公会議開催を計画します。このことを知ったフェデリコは、ローマへ航海中であった教皇特使を載せた27艘のジェノヴァ船をピサ艦隊に捕らえさせます。
多くの聖職者が殺されたり、捕らえられたので公会議は開催できませんでした。

ローマ法王は激怒し、ピサの町全体にinterdetto(秘跡や聖務への参加を禁じる)を命じました。scomunica(破門)ではないと地方史の先生は説明していました。

1241〜1257年 ピサ共和国は政治的に孤立します。国内ではヴィスコンティ家(ギベッリーニ派)とゲラルデスカ家(グエルフィ派)の抗争が起きます。

1257年 新法王アレッサンドロ4世はピサの町の聖務禁止を解除します。その条件は
◉2度と司教や教皇特使の活動を邪魔しないこと
◉1万リラを使い、新しい病院を建設すること

こうして病院がジョヴァンニ・ディ・シモーネ(カンポサントや斜塔の一部を手がけた建築家)の指揮により建てられたのです。

シノピア美術館となった経緯は
1944年 カンポサントにて爆撃による火事が起きます。
1947年 カンポサントの壁から最初のフレスコ画が剥がされる作業が行われます。
1976〜1979年 フレスコ画の下絵シノピアを展示するために病院を改築。
1979年 シノピア美術館として開館。

参照 comune.pisa.it

エトルリアのライオン

ピサ県
06 /17 2017
ピサの斜塔がある大聖堂広場を囲む市壁の上に、このライオンの像があります。
よくお客様に「あのライオンの像は何ですか?」と聞かれます。
leone etrusco
市壁の上に立っている彫刻はこれ一体だけですので、とても目立つのでしょう。
これは古代民族エトルリアの彫刻であると言われています。

ピサ共和国を守る市壁は1155年に、コッコ・グリッフィの指揮で建設されました。
ローマ帝国時代には町はもっと小さく、やはり城壁が張り巡らされていました。その中に公衆浴場、アンフィテアトロ、港などが存在していましたが、中世にはこれらが廃墟となり、建築物に使われていた石を再利用して作られたのが中世の市壁だったのです。

市壁からは何本もの塔が突き出ていましたが、1406年にフィレンツェがピサを支配するようになり、これらの塔の上部は壊されて市壁と同じ高さにされてしまいます。
町の中の塔型住居も破壊されました。有力市民の権力のシンボルであるこれらの塔は、自治都市が負けると取り壊されてしまうのが当時の習わしだったのです(都市の内部抗争で、町から追放された有力市民の塔型住居も破壊されるのが普通でした)

取り壊された「ライオンの塔」にはアーチがあり、広場への入り口となっていました。
塔の外部の壁龕に、このエトルリアのライオンの像が設置されていたので「ライオンの塔」と呼ばれていたのです。
今は閉ざされてしまったアーチの跡も見ることができます。
porta del leone

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。