レオポルド枢機卿のコレクション〜1〜

アルノ河南地区
11 /16 2017
フィレンツェのピッティ宮殿にて行われている特別展「レオポルド・デ・メディチ 収集家の王子」をご紹介します。
展示会期間は2017年11月7日〜2018年1月28日
lepoldo1
ピッティ宮殿地上階の「大公の宝物殿 Tesoro dei Granduchi」の区画にて公開されています。

レオポルド枢機卿の生誕400周年を記念した展示会です。
メディチ家のトスカーナ大公コジモ2世とマリア・マッダレーナ・ダウストリアの息子で、ヴァザーリの回廊に展示されている芸術家の自画像コレクションの収集を推進した人物です。美術の分野に限らず科学など様々な分野の収集を行いました。50の歳で枢機卿になったレオポルドは、当時のヨーロッパの収集家の中でも抜きん出た存在です。

展示品は古代彫刻、レオポルドと同時代の彫刻、メダル、通貨、カメオ、絵画、デッサン画、版画、象牙作品、貴石を使った高価な作品、肖像画、本、科学装置、自然の珍品など。

1675年に、枢機卿が亡くなった時、コレクションの多くは甥のトスカーナ大公コジモ3世の手に渡りました。こうしてウッフィツィ美術館などを飾ることになったのです。

サン・ミニアートの聖なる十字架教会

ピサ県
11 /13 2017
トスカーナ州ピサ県の小さな町サン・ミニアート
大聖堂のすぐ近くに、外見は質素なのですが内部が美しい「聖なる十字架教会 chiesa di Santissimo Crocifisso」があります。城塞や大聖堂や市庁舎がある空間と階段で結ばれています。
smsc88
建築は1705〜1718年、アントニオ・マリア・フェッリの設計です。
10世紀から伝わる奇跡を奇跡を起こすとされる聖なる十字架を収めるために建設されました。

平面図はギリシャ十字型(縦横同じ長さの十字)で、交差部分の上にはクーポラがあります。
smsc5

内部が全体的にアントン・ドメニコ・バンベリーニによってフレスコ画で装飾されています。
smsc6
祭壇画の周りはだまし絵です。両側の柱なんて、本当に浮き出ているように見えますよね。

主祭壇の板絵は「キリスト復活」(フランチェスコ・ランフランキ 1525年)
主祭壇のタベルナーコロには奇跡の十字架が収納されています。
smsc7

クーポラを支える柱の中には4人の福音書記者(ルイージ・パンパローニ 19世紀)が設置されています。

聖ヨハネ
smsc4

聖ルカ
smsc2

聖マタイ
smsc3

聖マルコ
smsc89

パンパローニの作品はフィレンツェでも大聖堂の横やアカデミア美術館で鑑賞することができます。

工房から変身した神学校

ピサ県
11 /12 2017
ピサ県の小さな町サン・ミニアート
大聖堂の近くにこんな整然としたレプブリカ広場があります。
seminario2
サン・ミニアートがルッカから独立し司教区になった17世紀、聖職者の教育を行う神学校の建設が決まりました。
当時この空間は市壁に沿う形で家と工房がひしめき合っていました。

1650年に12人の聖職者の住居がまず建設されます。
次第に1713年まで増築改築を繰り返し、神学校が完成しました。

ファサードは多角で構成されています。これは以前にあった住宅が後ろの市壁に沿って立っていたので、それをなぞったラインになっているからです。
ファサードのフレスコ画は1705年のフチェッキオの芸術家フランチェスコ・キメンティの作品です。
聖書や初期キリスト教の教父の30の格言を伴った美徳の偶像です。

今もファサードの下部には13世紀の工房の跡が残っています。
工房の入り口はT型で、中央扉の左右の壁の上には工房の商品が並べられていたのです。
seminario1
アレッツォの広場やフィレンツェのヴェッキオ橋の上にも、同スタイルの工房跡を見つけることができます。

サン・ミニアートの大聖堂

ピサ県
11 /11 2017
ピサ県サン・ミニアートの町の大聖堂は昇天の聖母マリアと聖ジェネーズィオに捧げられています。
duomo di sm7

12世紀 古い礼拝堂があった場所に聖母マリアの名前を持つ教会が健堂されます。最初の記録は1195年に遡ります。

1248年 丘の下に広がっていたランゴバルド族の集落が破壊され、そこにあったサン・ジェネーズィオの呼称と洗礼盤を譲り受けます。この時代に教会は修復され、ファサードには陶器の皿が装飾としてはめ込まれますが、この装飾は当時のピサ共和国で流行っていたものです。

1247年 コズマーティ様式の芸術家ジロルド・ダ・アローニョによって浮き彫りの「受胎告知」が製作されます。

1369年 町はフィレンツェの支配下に。教会を含む城塞の区画が再整備され、信者が教会に入れないようになりました。

1489年 政治情勢が落ち着き、ようやく教会は町の信者の手に戻ります。鐘楼などの修復と増築が行われます。

1622年 町がルッカの司教区から独立したときに、司教座聖堂となりました。

1860年 大きな改築が行われます。

1944年 アメリカ軍の銃弾が大聖堂に撃ち込まれ、内部にいた住人55人が死亡します。

>ファサード
26枚のチュニジアの陶器の皿がはめ込まれています(もとは31枚でした)現在は皿はコピーとなっていて、オリジナルは司教区美術館にあります。3枚の扉は16世紀のものです。

>鐘楼
「マティルデの塔」と呼ばれます。横の教皇代理人の館にてトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが生まれたという伝説から来た名前です(現在は否定されています)12世紀の建築。

>内部
19世紀の改築によって大部分が今の姿になったネオルネッサンス様式です。ラテン十字の平面図を持ち、身廊は3つに別れています。
duomo di sm3
天井は17世紀の建築ですが、3枚の丸い天井画は19世紀に描かれました。

>彫刻
説教壇はアマリア・デュプレ作。
彼女が父親のジョヴァンニ・デュプレによってプロジェクトされた、いくつかの墓碑も手がけています。これらはサン・ミニアートの市民の中でも著名な人々の墓です。
1274年のジロルド・ダ・コモ作の古い説教壇は大聖堂付属美術館にあります。

洗礼盤は17世紀のサンドリーニ作。また13世紀の洗礼盤は右の袖廊に設置されています。

>絵画
「十字架降下」ロ・スピッロ作(アンドレア・デル・サルトの兄弟)1528年

「東方三博士の礼拝」アウレーリオ・ローミ作
duomo di sm5

「ラザロの復活」コジモ・ガンベルッチ作

「イエスの洗礼」オッターヴィオ・ヴァンニ作

礼拝堂のフレスコ画装飾はアントン・ドメニコ・バンベリーニ作
duomo di sm1

礼拝堂のフレスコ画には聖人たちの物語が描かれています。
duomo di sm2

duomo di sm4

こちらは町の名前になっている聖ミニアートの物語。断頭されて殉教した聖人が自分の首を持ってすっくと立ちがる奇跡の場面です。
duomo di sm6

素朴な外観に比べて内部は新しいエレガントな様子ですね。

サン・ミニアートとナポレオン

ピサ県
11 /10 2017
ピサ県のサン・ミニアートの町の歴史は8世紀に遡ります。
ルッカの大司教資料によればランゴバルド族のグループが丘の上に殉教者ミニアートに捧げた教会を建設したそうです。
その後シュバーベンのフリードリヒ2世が町の中に城塞を作らせ、トスカーナ地方を治める代理人を置きます。
町は伝統的にギベッリーナ(神聖ローマ皇帝派)の立場をとり、中世を通じて「ドイツ人のサン・ミニアート」と呼ばれました。
san miniato1
1370年にフィレンツェ共和国と平和条約を結んだ後、それまで使用していたピサ共和国のカレンダーではなく、フィレンツェ共和国のカレンダーを使うことになります。
両国のカレンダーは3月25日を1年の始まりとする点は同じですが、ピサのカレンダーはグレゴリス歴より9ヶ月先に年が明け、フィレンツェのカレンダーはグレゴリス歴に3ヶ月遅れて年が明けました。つまりピサとフィレンツェのカレンダーは1年の違いが生じていたわけです。
そしてピサ共和国はギベッリーナ派であり、フィレンツェ共和国はグエルフィ(ローマ法王)派です。
ここでサン・ミニアートは政治的に大きくグエルフィ派に舵取りしているのがわかります。

1622年に司教座聖堂(カッテドラーレ)を受け、それまでルッカの司教区に入っていましたが、独立した司教区となります。

このような歴史を持つサン・ミニアートの町を若きナポレオンが2回にわたって訪問しました。
1回目は貴族の血筋にあることを立証するためでした。サン・ミニアートの貴族にナポレオンの苗字と同じブオナパルテという一族がいたためです。ナポレオンはフランスの士官学校に入るために貴族の身分を必要としていました。
2回目はイタリア遠征の折で、ブオナパルテ家の末裔の人物と面会しています。

1925年にサン・ミニアートはフィレンツェの下を離れピサ県に入っています。今でもフィレンツェ県とピサ県の境目に位置する町です。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住24年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。