オヴェターリ礼拝堂

パドヴァ
04 /13 2018
オヴェターリ礼拝堂はパドヴァのエレミターニ教会の右翼廊にあります。
マンテーニャが1448〜1457年に描いたフレスコ画で有名な場所です。
パドヴァのルネッサンスの鍵となる重要な作品ですが、第二次世界大戦の犠牲となったイタリアの文化遺産の中でも有名な存在です。
フレスコ画は、戦災でほぼ完全に破壊されてしまいましたが、その前に壁から剥がされていた2場面と焼け残った破片を見ることができます。
現在は破壊前に撮影された白黒の写真と、2006年の修復で復元された破片により大体の姿を知ることができます。

公証人アントニオ・オヴェターリが死の際に残した財産によって、家族の礼拝堂が装飾されます。
オヴェターリ未亡人が数人の芸術家にフレスコ画の依頼をしますが、その中に17歳になったばかりのアンドレア・マンテーニャがいました。彼にとってはスクアルチョーネの工房で修業を行なった後、最初の仕事でした。

【アンドレア・マンテーニャ】
ルネサンス期の画家でパドヴァ派の代表格と見なされています。
1431年にパドヴァ近郊に生まれ、パドヴァの画家フランチェスコ・スクァルチオーネに師事。ヴェネツィアの画家ヤコポ・ベリーニの娘と結婚したため、ジェンティーレ・ベリーニとジョヴァンニ・ベリーニは義兄弟にあたリます。1450年にゴンザーガ侯の招きでマントヴァへ移り、1460年以降はゴンザーガ家の宮廷画家として活動しました。
遠近法を駆使した厳格な画面構成や硬質な線描、彫刻的な人体把握が特徴です。

オヴェターリ礼拝堂でマンテーニャはカティーノ(アプスにかかる4分の1のドーム)から仕事を始め、3人の聖人を描きました。
そして左のルネッタに「聖ヨハネと聖ヤコブの召喚」「聖ヤコブの説教」などを1450年までに完成させています。
作業は中断の期間を経たあと(他の芸術家が亡くなったりした為)マンテーニャを中心に進められて行きました。

1880年、風化が激しかった2場面「昇天」「聖クリストーフォロの殉教と遺体運搬」が壁から剥がされます。この部分が1944年の爆撃の被害から逃れることができたのです。

礼拝堂は聖ヤコブと聖クリストーフォロに捧げられていて、両側の壁にそれぞれの聖人の物語があります。3つのレベルに2場面ずつ、全部で6場面の物語です。

左の壁(全てマンテーニャの手によります。聖ヤコブの物語)
「聖ヤコブと聖ヨハネの召命」
「聖ヤコブの説教」
「エルモジェーネを洗礼する聖ヤコブ」
「聖ヤコブの判定」
「聖ヤコブの奇跡」
「聖ヤコブの殉教」

右の壁(聖クリストーフォロの物語)
「聖クリストーフォロの辞去」
「聖クリストーフォロと悪魔の王」
「子供のイエスを岸に渡す聖クリストーフォロ」
「聖クリストーフォロの説教」
「聖クリストーフォロの殉教」
「断頭された聖クリストーフォロの遺体の運搬」

中央の壁
マンテーニャ作「聖母被昇天」

マンテーニャがすでに正確な透視図法を用いて描いていたことがわかります。師匠のスクアルチョーネから学んだ技術だったのでしょう。
聖ヤコブの物語の上部2枚(ルネッタ部分)ではまだ透視図法の使い方に不確かな部分があるのですが、その下の場面ではすでに完全に使い熟していることがわかります。

特に「聖クリストーフォロの殉教」と「断頭された聖クリストーフォロの遺体の運搬」の場面は中央にある円柱が場面の繋ぎとなり、まるで大きな1つの空間で展開しているようです。
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【聖クリストーフォロ】
カトリックの伝承ではクリストフォロスはもともとレプロブスという名前のキリスト教に改宗したローマ人で、流れの急な川を渡ろうとする人々に無償で奉仕していました。
ある日、小さな男の子を背に乗せて川を渡そうとすると、男の子は異様な重さになります。男の子は自らがイエス・キリストであると告げ、全世界の人々の罪を背負っているため重かったことがわかります。川を渡りきったところでイエスはレプロブスに「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名を与えます。
イエスの命令でレプロブスが持っていた杖を地面に突き刺すと、みるみる巨木となり、この木を見た多くの人々がキリスト教に改宗します。これを知ったデキウス帝によりクリストフォロスは捕らえられ、拷問を受け斬首されました。

マンテーニャが書いた場面左では聖クリストーフォロが縛られていますが、彼を狙った矢が全て外れ、執行人の目に命中しています。窓から刑の執行を命じた王が覗いています。
右は断頭された遺体が運ばれていますが、その血に触れると執行人の目が治ったという奇跡の場面です。

パドヴァ エレミターニ教会

パドヴァ
04 /12 2018
パドヴァの有名なスクロヴェーニ礼拝堂の横にあるのがエレミターニ教会です。
本当の名前は「使徒ピリポとヤコブ教会」で、聖アゴスティーノ修道会によって建てられました。
アゴスティーノ会は、ドメニコ会やフランチェスコ会、カルメル会と並ぶ托鉢修道会です。彼らはこの教会を1806年まで所有していました。
この修道会をイタリア語で「Ordine degli eremitani di sant'Agostino」と呼びます。
eremitaniには「隠者」「隠修士」「アゴステイーノ(アウグスティヌス)修道会隠修士」という意味があります。
これが教会の名前の由来になっているのですね。

ロマネスク〜ゴシック様式でフラ・ジョヴァンニ・デリ・エレミターニによって1264年に着工されました。
1994年の爆撃で被害を受け、一部はその後に再建されたものです。

ファサードは上部中央にバラ窓を持ち、下部は5つのアーチがあります。
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内部は単廊式で左右に墓碑が備え付けられています。
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天井は戦災の後に再建されています。

14世紀の医者で哲学者であったヤコポ・ダ・フォルリや、16世紀の人文主義者ベナヴィデス、17世紀のイタリア医師で博物学者アントニオ・ヴァリスネリなどの墓碑があります。
べナヴィデスの墓碑はバルトロメーオ・アンマンナーティの1546年作品です。
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またヴァリスネリは昆虫の発生の観察と実験を行い『多くの昆虫の奇妙な起源』『人体に発生する虫の発生の考察』を書いた人物です。

しかし何と言ってもこの協会は、ルネッサンスの巨匠マンテーニャのフレスコ画があることで有名です。
次回はマンテーニャの作品があるオヴェターリ礼拝堂を紹介します。

ルカ・ベッルーディの礼拝堂

パドヴァ
04 /11 2018
パドヴァの聖アントニオ聖堂は、ゴシックからルネッサンス、バロックの建築や彫刻、近代のフレスコ画など様々な時代の作品が入り混じっている教会です。
今日はゴシック様式「ルカ・ベッルーディの礼拝堂」の礼拝堂を紹介します。
元は2人の使徒(ピリポと小ヤコブ)に捧げられた礼拝堂なのですが、聖アントニオの晩年に彼に付き従っていた福者ルカ・ベッルーディの遺体が保存されているため、この名前で呼ばれます。
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聖アントニオの棺の礼拝堂の横にあるマドンナ・モーラ礼拝堂から奥に入った位置です。
8角形の半分と四角形を合わせた平面図。1382年にパドヴァの貴族のコンティ兄弟の出資で建設されました。

祭壇は円柱に支えられた棺の形です。横に手すりのついた5段の階段を登った上に祭壇があります。
棺は13世紀の作品で中に福者の遺体が保管されています。最初はこの棺の中にはルカではなく聖アントニオの遺体が保存されていたと言われます。 1231〜1263年の時期なので、アントニオが亡くなってすぐの時期ですね。

礼拝堂は68場面のフレスコ画で装飾されています。ジュースト・デ・メナブオイの手により1382年ごろに描かれました。

後陣の正面には「王座の聖母子」があり、その周辺に聖人たちが描かれています。
天井は交差ヴォールトで三角形の空間にイエスとピリポと小ヤコブがいます。
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祭壇の横のフレスコ画はルカの生涯のエピソードが描かれていて「祈るルカの前に顕れる聖アントニオ」「福者の墓の周りで嘆く信者」「パドヴァの解放の予言」など。興味深いのは当時のパドヴァの町の様子が表現されている部分です。

残りの部分は「黄金伝説」に書かれたピリポとヤコブのエピソードとなります。「異端者と論議するピリポ」「マルスの神殿でドラゴンを倒すピリポ」「ピリポの磔刑」など。

参照参照 Touring Club Italiano Guida d'Italia - Veneto (serie Guide Rosse), pp. 443-451, ISBN 88-365-0441-8.

聖アントニオ聖堂 アントニオ・ロッセッリの霊廟

パドヴァ
04 /10 2018
パドヴァの聖アントニオ聖堂には多くの霊廟があります。
聖人アントニオの遺体を祀る礼拝堂以外にも、司教、海軍の将官、作家など多くの人物の墓所となっているのです。その多くが彫刻と建築を一体化させた素晴らしい記念碑になっています。

このような故人の栄誉を称える墓碑のプロトタイプはルネッサンス時代の作品で、フィレンツェのサンタクローチェ教会にある「ルオナルド・ブルーニの墓碑」(ベルナルド・ロッセリーノ作)と言われます。

聖アントニオ聖堂にはそのブルーニの墓碑によく似た作品があります。
14世紀末にアレッツォで生まれたイタリア人の法学者「アントニオ・ロセッリの墓碑」です。
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ボローニャの大学で法学を修め、ボローニャ、シエナ、フィレンツェで法学部の教授として教えます。最後はパドヴァ大学で教鞭を執っていました。教皇マルティーノ5世のコンサルタントになり、ポーランド王と神聖ローマ皇帝の仲裁人として政治の場でも活躍しました。

墓碑はヴェネツィアで活動した芸術家ピエトロ・ロンバルドの代表的な作品です。彼はラヴェンナの詩人ダンテの墓碑の製作者でもあります。

アーチを支える小さい角柱と外部の大きな角柱の間にフェストーネ(花綱)の装飾が浮き彫りで施されています。古代ギリシャの神殿では本物のフルーツや花を使った綱の装飾を使っていました。紀元前3世紀の頃からその様子を浮き彫りで表現するようになります。このような古代のモチーフに由来したものです。

「レオナルド・ブルーニの墓碑」と比べてみましょう!
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棺の祭壇

パドヴァ
04 /09 2018
パドヴァの聖アントニオ聖堂内部には「棺の祭壇と礼拝堂 Cappella e altare dell'Arca」と呼ばれる空間があります。
階段の上の祭壇が聖アントニオの遺骸を納めた棺になっています。
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棺の周りにはex voto(奉納物)が山のように置かれていて、聖アントニオが非常に人気のある聖人であることがわかります。棺の後ろの空間では、棺に向かって熱心にお祈りをしている信者の方々がいます。

礼拝堂のファサード(建築正面)は二重のアティック(古代ローマ建築の正面最上部を成す帯状壁面。本来は屋根のこう配を隠し,正面を方形に整えるための装飾壁)になっていて4本の円柱と2本の角柱で支えられています。ペンデンティブには4人の福音書記者の胸像が入っています。
碑文は
DIVO ANTONIO 聖なるアントニオ
CONFESSORI (殉教者ではない)聖人
SACRUM 聖なる
RP PA PO パドヴァ共和国が設置する


正面上部の聖人像は16世紀の作品です。
聖ジュスティーナ(ジョヴァンニ・ミネッロ作)
洗礼者ヨハネ(セヴェーロ・カルツェッタ作)
聖アントニオ(ジャコモ・ファントーニ作)
聖プロスドチモ(セバスティアーノ・ダ・ルガーノ作)
巡礼者ダニエレ(ジャコモ・ファントーニ作)

祭壇は7段の階段の上に設置されていて、1607年のティツィアーノ・アスペッティの作品です。
祭壇上の3体の彫刻は16世紀の作品で聖アントニオを中心にフランチェスコ会の司教であった聖ボナヴェントゥーラと聖ルドヴィーコ・ディ・トローザ。

祭壇の後ろ、壁沿いには9つの「聖アントニオの奇跡」の場面が高浮き彫りで表現されています。
左から
「フランチェスコ会の僧服を受け取る聖アントニオ」(アントニオ・ミネッロ 1519)
「嫉妬に駆られた夫に刺された妻の傷を癒やした聖アントニオ」(ジョヴァンニ・ルビーノ 1524)
「若者を蘇生した聖アントニオ」(ダネーゼ・カッターネオ 1571)
「若者を蘇生した聖アントニオ」(ヤコポ・サンソヴィーノ 1536)
「子供を蘇生した聖アントニオ」(ミネッロ→サンソヴィーノ 1520〜1536)
「金貸しの心臓の奇跡」(トゥッリオ・ロンバルド 1505)
「蘇った足の奇跡」(トゥッリオ・ロンバルド 1505)
「割れないグラスの奇跡」(ジョヴァンニ・マリア・モスカ1520)
「話す幼児の奇跡」(アントニオ・ロンバルド1505)

礼拝堂内部のルネッタ(半円形の空間)には漆喰装飾でイエスと12人の使徒が表現されています。

何と言っても見所はヤコポ・サンソヴィーノの作品です。ルネッサンス時代のフィレンツェ出身の芸術家でアンドレア・サンソヴィーノの弟子として彫刻を学び、1527年からヴェネツィアで主任建築家として活躍しています。

伊藤裕紀子

イタリアのフィレンツェ在住25年目。フィレンツェ県とピサ県の公認ライセンスガイド。何年たっても知り尽くせないイタリアの魅力を追求中。個人旅行のガイド、通訳の依頼も請けております。